不戦の表明
日本を戦争をする国にすることを標榜する安部氏の不戦表明。非常な違和感を感じる。
要するに「米国に刃向かうようなことはいたしません」と言う意味なんだろうなぁ。
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日本を戦争をする国にすることを標榜する安部氏の不戦表明。非常な違和感を感じる。
要するに「米国に刃向かうようなことはいたしません」と言う意味なんだろうなぁ。
毎年この季節になると疑問に思うことがある。それは、現在日本でも使用されているキリスト教歴では、何故新年が当時の翌日から始まらずその一週間後から始まるのかと言うことだ。
古来、様々な民族が独自の暦を用いてきた。大別すれば、太陽の運行を基準とする太陽暦と月の満ち欠けを基準とする太陰暦だが、その多くは冬至または春分を新年の開始を決める基準に用いてきた。いくつかの農耕民族では、農作業を始める時期を計る基準として春分を用いて、春分またはその翌日を新年の第一日とした。また、寒冷地に暮らすいくつかの民族では冬になって衰えた太陽の生命力がよみがえり始める日として、当時の翌日を新年の第一日とした。
しかし現在のローマ教会暦はそのどちらでもなく、約一週間のずれがある。現在は12月25日と定められているイエスキリストの誕生日も、先行宗教の冬至祭りに由来し、キリストの生誕によって始まる新しい世界が太陽が再生を始める冬至の翌日に重ねられたものと考えている。しかしその際すでに新年が当時とずれてしまっていたために、それがそのまま盗取されたのかもしれない。
新年のずれは、天文にほとんど関心持たなかったように見えるローマ人がこまめに修正をかけなかったっため、当初エジプト人から引き継いだ暦にずれが生じた可能性もある。そしてその後のローマ教会も、歴史記録の日付以外には暦の精度には関心がなかったように見える。
韓国の大統領スキャンダルは、韓国でもドラマそのままだと言う声があるようだ。
私は日中パソコンでなどの作業をしながら、部屋が静かすぎて耳鳴りが気にならないようテレビや音楽を点けっぱなしにしていることが多い。そんな時、気がつくと何度も見た和製ミステリーのほか、韓ドラになっていることもよくある。
韓ドラは大声でわめき合うのが特徴のようで、大声で気がつくと言い合いをしていることが多い。そんな時字幕を見ると、どちらもあきれるような身勝手な言い分をまくし立てている。どうやら韓国では、日本人の感覚ではあきれるほどの身勝手が社会標準らしい。その臆面のない身勝手ぶりには、あきれるを通り越して感心する。
ドラマでは、金持ちと貧乏人と同じ身勝手の図式が、親子や嫁姑の間でも展開される。これは自分に好都合なへりくつを繰り広げるツールとして発達した(韓国時代劇ではそう見える)、日本の儒教とは似て非なる韓国儒教によるものかもしれない。
日本では勤労者の有給休暇消化率が低いのが問題とされている。しかし有給休暇を取らないのは米国でも同様らしい。
2016/12/21付けのCNNによれば、米国人労働者は一人当たり平均七日の有休を使い残しているのだそうだ。つまり約三分の一を使い残すと言うことになる。そして使わない理由も日本と似たり寄ったりだ。これらはおそらく米国以外の欧米諸国でも似たようなものだろう。
つまり日本人が特異的に有給休暇を消化しないわけではなく、欧米でも平均消化率で見ると大きな差はないと見る方が良さそうだ。
CNN記事;「有給休暇、勤労者の半数が使い残し 米調査」
2016.12.21 Wed posted at 13:41 JST
一時日本で流行しかけた、イベント会場に車で突入するという無差別テロの手法がISに採用されてグローバル化してしまった。
日本の場合は死刑志願者による無差別テロでまだ小規模だったが、最近ヨーロッパで実行された例では日本にはないような超大型トラックが使われ、破壊力が大きくそれに対応して被害差数も多くなっている。
かつてイスラム過激派が日本でテロを起こすのであれば、この車で人混みに突入するというものだろうと記事に書いたことがある。銃器や爆薬の管理が厳しく入手が難しい日本では、車を暴走させることが手軽に入手できて破壊力が大きい武器になり得るからだ。また、手間のかかる事前準備も不要で、察知されにくいこともテロリストには好都合だ。
と言うわけで、秋葉原歩行者天国事件などを見てこれは日本式無差別テロだと言ったのだが、厳しい監視をかいくぐるに好都合だとしてイスラム過激派がヨーロッパで採用するとは予想してはいなかった。
こんな日本式のグローバル化はありがたくない。
これは某保険会社のTVCM注のキャッチコピーだ。
一年間無事故だったのに保険料が下がらないと言いたいのだろうが、私にはこれは事故常習者の言い分のように聞こえる。なぜならば、長年無事故を続けていると、保険料はほとんど下がらなくなるのが当然だからだ。言い換えると、無事故でいて保険料が大きく下がるのは事故を起こした後、あまり年月が経っていないうちだけだ。従って、掲題の台詞は頻繁に事故を起こす者の言い分と言うことになる。
長年無事故を続けていると保険料があまり減らなくなるが、小事故で多少等級が下がってもは保険料があまり上がらなくなる見返りがある。この点は認識しておくべきだろう。
日本のクラシック界では、最近シャドウライターを使った偽作が暴露され作曲者と称していた人物が事実上音楽界から追放される事件があった。
しかしクラシック音楽の世界では、他人の作として自作を発表する例が少なくない。最も多いのは、近代・現代の作曲家がいろいろな理由からルネッサンスやバロックの忘れられた作曲家の名を借りるケースだ。中にはパガニーニが自作を自演で発表したが、批評家たちが「演奏は素晴らしいが曲はいただけない」と書き立てたのに腹を立て、忘れられていたルネッサンスやバロックの作曲家の曲だとして発表したところ絶賛されたと言う例もある。付け加えると彼は、曲が有名になった後に「実は自分の作曲だ」と公表し、批評家の鼻を明かして溜飲を下げたそうだ。
面白いことに、そのような偽作曲には名曲と言われるものがいくつもある。たとえば、有名な「アルビノーニのアダージオ」はアルビノーニの研究家が、アルビノーニが忘れ去られているのを残念に思い、自作を「アルビノーニの断片による編曲」として発表したものとされているし、「カッチーニのアヴェマリア」はロシア人のギター・リュートの演奏家が自作をルネッサンスのイタリア人作曲家カッチーニのものだと称したとされている。
もっとも、私はカッチーニのアヴェマリアはてっきり近代以降の曲と思い込んでいたので、カッチーニがルネッサンスの作曲家と知って驚いたのだが。理由は、ルネッサンス・バロック期のアヴェマリアというと、フレーズが短いアルカデルトやヴィットリアの物のイメージしかなかったからだろう。
上記の2曲はどちらもクラッシックの名曲とされ愛好者が多いが、好評を得られなかったものはおそらく数知れずあるだろう。
故三笠宮殿下が、敗戦後間もないころに皇室典範の改正が議論されていた際に、当時の枢密院に提出された文書に記載されていると朝日新聞が報じている。
自由党の小沢氏が民主党政権時代に深夜に閣僚の認証を求めたことを非難された際、「天皇は内閣の指示に従う義務がある」と言う意味の発言で同じことを表現している。
それを考え合わせると、「天皇は内閣の奴隷」は言い得て妙である。
保守派は、内閣に不満を持つ天皇が退位でそれを表現することを恐れているようだが、いくら憲法で皇族の人権が保証されていないとはいえ、出処進退を自ら決める権利を認めないのは不当だと私は思う。
経済援助のうまい汁を吸われただけで、見返りは何も無しに終わった日ロ首脳会談。
安部氏と外務省の外交音痴ぶりを暴露して、これは失態と言ってよいだろう。安部氏は成果を強調するが、すればするほど空しい強弁になる。
お坊ちゃまの安部氏と、KGB出身で百戦錬磨のプーチン氏では役者が違いすぎたと言うことか・・・・。日本外交ではいつものこととはいえ情けない限りだ。
これは元々は論語の言葉で「民は由らしむべし、之を知らしむべからず。」であるが、「民は施政者の定めたことに黙って従わせるべきである」、あるいは「民は為政者の定めたことに黙って従うべきである」と言う意味にも用いられる。
そして、これはまさに今安倍政権が行っていることに他ならない。様々な新法について、国会でその詳細を審議せず、明らかにしないままに次々と成立させている。言い換えると、江戸時代同様にお上の決めたことには素直に従えと言うことだ。
そして、脱戦後教育でお上の指図には素直に従うようしつけられた世代は、それを疑問にも思わないようだ。
かつて、専業主婦が当然であった時代、夫の収入で妻子を養える金額が労働賃金の基準だった。
今、女性が社会進出して共働きが当然とされる時代、労働賃金の基準はは本人が食べていければ十分な額となった。当然,子供を養うに必要な分は考慮されていない。
子供を養うに必要な額とは、かつては衣食と学用品がまかなえればよかったが、今はそのほかに保育園などの費用が必要になって増大している。しかしかつて支給されるのが当然とされた手当は、今は廃止が当然とされている。
子育てに困窮する一家が増える現状では、少子化が進行するのは当然だ。
古来、国家の支配者に強い影響力を行使した宗教関係者が何人もいる伝えられている。
孝謙天皇に寵愛された弓削の道鏡、エカチェリーナ女帝に寵愛されたラスプーチンがその代表だろうが、ルイ14世のもとで権力を振るったマザラン枢機卿も加えてよいかもしれない。もっともマザランは自身の政治能力で国王をしのぐ権力を手に入れたとも伝えられているので、女帝を宗教的(精神的)に支配したため「怪僧」と呼ばれる彼らとは異なるかもしれない。
いずれにしても、宗教的な権威によって「怪僧」に支配されたと伝えられるのは女性権力者が多いのは特徴的だ。女性の方が権力者の孤独に弱い傾向があるのかもしれない。強い影響力を持つ「怪僧」や親密な側近を持たなかった女性権力者は、マリア・テレジア女帝やビクトリア女王のように精神的に支える忠実な配偶者がいたことで共通している。
そして今回、この列に韓国の朴大統領と宗教団体の関係者と伝えられているチェ氏が加わったわけだ。彼女もまた独身であり、精神的な支柱を必要としていたためつけ込まれたのかもしれない。
「天皇機関説」は、戦前に美濃部達吉が発表して軍部から弾圧を受けた学説だ。
しかし今、天皇の譲位に反対する保守派の主張を聞いていると、天皇は政権が政権運営に利用するための道具であり、天皇の人間的な要素は無視すべきであると言っているように聞こえる。
これはまさに新たな「天皇機関説」といえるのではないだろうか?
天皇の退位が、政権への判定の意思表示として利用されることを保守派が恐れるのは、これまでに何度も天皇をただの政権の道具として利用してきたという自覚があるのだろう。
私は天皇も人間であり、人間として年齢的な限界があることを認識している。だから、本人が年齢や病気による気力体力の衰えを感じて退位を望むのであれば、快く望みを叶えて差し上げたいと思う。
五輪経費が誘致時の計画の何倍にも膨らんだ原因は競技団体のタカリ体質だろう。
オリンピックを錦の御旗にそれぞれが豪華な競技場をねだり、森氏がそれを容認後押しした。これが経費膨張の実態だと考える。
経費膨張が批判されてもなお、森氏の後押しを受けて豪華競技場の新設を要求し続けている。各競技団体は森氏にいくら献金したのだろうか。もはや代議士ではないので賄賂にはならないのだろうが、それを知りたいものだ。
このところスマホゲームをしながらの運転を指摘されたり、さらに事故に至った事案が報道されている。このようなながら運転がきわめて危険であるにもかかわらず、「私はそれを我慢できない」者が少なくないようだ。
私は携帯やスマホのメールを含めて、このようなながら運転には危険運転致死傷罪を適用すべきだと考える。かつては、ハンドルの上に漫画雑誌を広げて読みながら運転をして事故を起こした例もある。誰が考えても正常な運転が困難なこのようなながら運転による事故を無くすには、現代の世相では厳罰化しかないように思えるからだ。
昨日タクシーの暴走事故が起きた。時折起きる暴走事故は、運転者が高齢のことが多いので高齢による心身能力の低下や急病による意識喪失が原因と決めつけて終わりになることがほとんどだ。
しかし、最近の自動車のようにコンピューターを利用した制御の比重が高くなると、コンピュータのプログラムのバグやコンピューターの故障、さらには外部からの侵入や強力な電気的ノイズによる制御の狂いもあり得ると考えるべきだろう。
コンピュータにあまり詳しくないものたちは、コンピューターが想定外の動作をするなどと言うことは信じないかもしれないが、大きなプログラムを組んだことがあるものにとってはバグは無くしきれないもので、取り除ききれなかったバグが致命的な事態に結びつかないことを祈るしかないことはよく知っている。
コンピューターはプログラムを組んだ者が想定しなかった動作をする可能性が常にあると考え、その場合とっさに人間が対応する手段も用意しておくよう義務づけるべきだ。
その1.
部屋を整理して長年使わなかったものを捨てると、数日後にはそれが必要になる不思議。
暇なときに続けて書き足します。
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