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March 2012

March 30, 2012

原子力発電で利益を得ていたのは誰か?

原子力発電コストは不当に低く見積もられていたのだという主張がある。だとすれば、それを元に算出されてきた電力料金は不当に安かったことになる。

そしてそれによって不当な利益を得ていたのは誰か?それはまず第一に電力利用者だ。

不当な利益を享受してきた電力利用者が、電力会社が不当な利益を得てきたと非難するのはお門違いのような気がする。電力利用者もまた過去の不当利得を返還すべき義務がある。

だから脱原子力を求めるのであれば、脱原子力に必要な資金負担は甘受せねばならない。たとえそれが雇用に悪影響するとしてもだ。また、過去の付けはきちんと支払わ無ければならない。それが過去を脱する唯一の方法だから。

党首離党か?

国民新党が崩壊に直面している。亀井代表が政権離脱を通告したものの、8名中6名が政権残留を表明したため実質的な政権離脱には至っていない。その結果、亀井代表の方が離党に追い込まれかねない状況になっている。

亀井代表が党内で孤立した背景には、昨年からの新党構想での暴走がありそうだ。党内の意見や新党参加の可能性がある人たちの意見に留意せず、勝手な発言を繰り返した付けと言ってもいいだろう。聞く耳がなければ影響力も無くなると言うことだ。

一方、これは小沢派にとっても深刻な事態だろう。国民新党の政権離脱をてこに、民主党内での影響力回復を狙っていたからだ。ここで下手に動くと、すっかり衰えた小沢氏の影響力が暴露されることになりかねない。「党役員辞任は各自の判断で」と言う小沢氏の発言はそれをはっきりと表している。小沢氏が辞任を指示して辞任するものが少なければ、小沢氏の影響力が失われていることの証明になるからだ。

亀井氏も小沢氏もますます追い込まれて行く。両氏が離党せざるを得なくなるかどうか、それは高度成長を背景にした戦後政治の一時代が終わることになるのかもしれない。もっとも、政局全体としてはごく些細な出来事に終わりそうな気はするが。

March 29, 2012

ねじれ、ねじれ、ねじれ

国会だけでなく政党内でもねじれている。亀井静香氏は消費税増税に賛成できないとして連立解消を民主党に通告した。ところが現内閣に名を連ねている党員は無所属として内閣に残るのだという。これは立派な党内ねじれと言うべきだろう。

そのほかにも、原子力発電のコストを低く算定することで長年安い電気料金を享受してきた国民が、こぞって脱原発、電気料金値上げ反対と言う。これは立派な論理のねじれだ。

かくして皆が、自分の都合に合わせて矛盾したことを平気で主張する。結果として、今の日本はプレッツエル(プリッツエルとも)のごとく見事にねじれ上がった状態だ。

March 27, 2012

偽文書による冤罪事件

市議会における「大阪市職員による選挙運動告発」はどうやら偽文書による冤罪事件であることは明らかになって来た。

このような偽文書による虚偽告発は、これまでもしばしば起きている。民主党の前原氏が足下をすくわれた偽メール事件を覚えている人も多いだろう。

このような偽文書による告発の動機は様々だろう。権力者が独裁的である場合には新権力者におもねて取り立てられようと、競争相手を前権力者に協力していたとして陥れる目的もあるだろう。また、後から偽文書であることを暴露して取り上げて騒いだ者達の体面を失わせることを目的とすることもあるだろう。前者は今回の大阪市の内部文書事件。後者は偽メール事件がそれぞれ当てはまる可能性があると考えられる。このほかに、ただ自分に注目を集めたいだけという場合もあるだろう。

いずれにしても、目立ちたがる者にとっては大見得を切って告発し注目を浴びることは魅力的だろう。また、独裁的な権力者の多くはおもねる者を重用しがちなので、取り入って利益を得たがるものも少なくない。さらに、メディアを利用して注目を浴びたいという者も今後増加しそうだ。だから、このような偽文書事件はますます増加するだろう。

しかし、このような偽文書によって告発することは刑事罰を受けなくても、社会的は冤罪に陥れることに等しい。メディアは報道に当たって、文書の真偽についての慎重な調査を行うべきだ。誰かを陥れる目的の他、単にメディア受けを狙った偽文書と言うこともあり得るからだ。見境無しに飛びつくと、今度は自分が体面を失いかねない。

春の足取り

3月も終わりが近づいたが、相変わらず春の歩みは遅い。

我が家の周辺ではやっと「そめいよしの」の花芽の先が色付き始めた所だ。地表に咲く花もいまだに少ない。去年の写真を見ると、ベランダではすみれ類などが満開に近づいていたのだが、今年は大半にやっと小さな花芽が見え始めたところだ。

インターネットで積雪地の道路カメラを覗いてみても今年はまだ雪が多いところが多い。里も山も今年は2週間以上春が遅れているように見える。山間地や寒冷地では田植えの準備に影響が出そうだ。

この十年、温暖化が進んでいると言われるが、猛暑ばかりでなく大寒波も増えている。全体に気候・天候の変動幅が大きくなり、気象災害のパターンが変化している様に感じる。過去には経験したことがない気象災害が発生する原因には、人間の経済活動も含まれているようには感じるが、地球規模の気候変化が起き始めていることは確かなことに思える。

March 24, 2012

「思いやり」が日本をダメにした

「思いやり」も使い方を誤ると物事をダメにする。日本の現状を見ると「思いやりの濫用」によって生じた不幸な結果という感がある。

その例をいくつか見てみよう。

団塊の世代の私が中学や高校の頃、進学志望者数の増加によって入試競争率が非常に高くなり、有名校では3~5倍と言うことも珍しくはなかった。それを「受験戦争」、「受験地獄」等とメディアが称して一種の流行語になっていた。これを「受験生がかわいそう」だとして、「大学全入運動」を進めるべきだという主張が始まった。これは「進歩的」教育関係者によって進められ、後の大学大増設につながった。

また入学試験によって志望者が選別され、有名校とその他で格差が生じる。その結果有名校に入学できなかった者達が引け目を感じるのはかわいそうだ。だから「学校間格差」をなくすため「学校群」とし、同じグループ内の学校に学力が均等になる様振り分けるという「学校制度改革」も行われた。その結果、「できる」生徒も「できない」生徒も「平均的な」生徒に合わせることを強要され、どちらも切り捨てられることになった。

さらに他の生徒と較べることは劣る生徒にかわいそうだと、ありとあらゆることについて比較できる結果が出るようなことは良くないのと言う風潮が生まれ、運動会では勝敗が付くような競技はダメ、成績順位が分かるような小テスト(ドリル)もダメ、通知表はほめ言葉しか書かない、と言った極端な例まで流行し、一部のメディアがこれを「思いやり」があってよいことだと賞賛したこともある。

そしてこれは時間が経つうちにさらに極端化し、授業時間が多いと塾通いが多い生徒にかわいそうだから事業時間を減らせ、授業内容はそれに応じて減らせという「思いやり教育」に発展した。

さらに育児やしつけにおいても、子供は叱ってはいけない、挫折や敗北を経験させるのもトラウマが残り「かわいそうだから」ダメだ、と言うことが「進歩的」教育専門家たちの主流となった。

また、分からないことを自分で調べさせるのも負担が多く「かわいそう」だから、何もかも教師が教え、学校で教えないことは知らなくても良いことにされた。

これらは全て「詰め込み式で競争が多い戦後教育」を改める「脱戦後教育」を目指す教育改革だとされた。その結果子供たちは挫折や敗北を味わうことなく育ち、それらをどのように乗り越えればよいのかを知ることもなくなった。しかし社会生活をする以上、挫折や敗北に出会わないことはあり得ない。利害対立のない社会生活など無いからだ。

こうして挫折や敗北に対する抵抗力のない大人が大量生産され、些細なことですぐにくじけて不満を言い、自分に対する「思いやり」を要求する風潮が生まれた。これはまた、何でも他人にしてもらいたがる「クレクレ族」や、自分の思うようにしてもらえないことに不満をとなえる「クレナイ族」の大繁殖をもたらした。そして何かに付けて政府や地方自治体などにしてもらいたがり、メディアや政治家も人気取りにそれを後押しする。これは政府や自治体の財政悪化の一因にもなっている。過去には住民が自分たちでしていたことをいやがって新しいサービスを要求し、従来からあるサービスの廃止や縮小は認めないでは、必要な財源がふくらむばかりだからだ。

また「思いやり」を振りかざしたメディアが、事件や事故、災害の被害者への同情をいつまでも煽り続け、結果として当事者の傷口をえぐり続けることもある。同情されたくて仕方がない物もいれば、心を整理して新たな日々へと出発したい者もいる。心の整理をつけて再出発したい者にとっては、毎年騒ぎ立てられ、取材されたりするのは迷惑なことだろう。だからメディアは双方への目配りをして、節度ある報道をすべきだ。

また、被害者の誰か他人の責任にしたいという無理からぬ欲求を取り上げ、被害者が「かわいそう」だからその心情を思って法的責任の有無にかかわらず関係者を有罪にすべきだ等というとんでもない意見を口にする者もいる。ここまでくるともはや社会倫理が崩壊しているとしか言いようがない。

かくして今の日本社会は「思いやり」の濫用によって崩壊の危機に瀕している。「思いやり」にも節度が必要なのだ。

March 23, 2012

トンデモ科学者の疑問(物理学編);円偏光

長い間「円偏光」のイメージがつかめずにいたが、最近少し理解し始めたように思う。

というのは、一般的な円偏光の説明では「偏光面が回転しながら進む」と書かれていることが多い。しかしなぜ進行しながら回転するのかがとらえにくい。それについて考えているうちに、これは偏光面が進行しながら回転するのではなく、静止している観測者から見て偏光面が回転するのだと考える方が良いことに気がついた。

これがどのようなことを意味するのかと言えば、観測者が光の進行方向に垂直な面内で互いに直交するベクトル成分に振幅を分けて測定すると、両成分間の位相がずれていると言うことだ。

位相にずれがなければ、2成分の合成ベクトルは常に同じ方向を向いている。これが直線偏光だ。だがずれがあると、合成ベクトルの方向は1周期で1回転する。両成分のどちらの位相が早いかによって回転方向が決まる。恐らくこれが円偏光の正体なのだろう。

このような状態は、結晶軸に対する方向によって屈折率(言い換えると光速)が異なる結晶体によって簡単に作ることができる。このような結晶体は光学結晶体と呼ばれ、代表例の方解石は中学・高校の理科の教科書にも登場する。

とここまで書いて、これでは両軸での最大振幅が異なる「楕円」偏光ができる説明にはなっても、等しい「円」偏光ができる説明にはならないことに気がついた。すぐにおわかりのように、この説明では両成分の最大振幅が等しくなるのは両軸と入社する偏光の偏光面がなす角度が45°で位相ずれが1/4周期の場合だけだ。

補足;トンデモ科学者流に言うと、屈折率は真空中の光速をその媒質中の光速で割った値に等しい。

補足2;円偏光は1周期で偏光面が1回転するので、時間平均すると全方向の強度が同じになり偏光していないのと同じ取り扱いができる。この性質を利用して偏光板の後ろに位相を1/4ずらす1/4波長板(位相差板とも言う)を取り付けたものがサーキュラー偏光フィルターだ。

また円偏光を偏光板に入れると、全方向の光の時間平均強度が等しいので偏光板の向きをどのように回転させても透過する光量は変わらない。つまり、サーキュラー偏光フィルターの裏表を逆に使うと、偏光フィルターとしての効果がないのはこのためだ。ただしこの場合、フィルターを通過した光は偏光になる。

追記(2013/04/22);
円偏光をアニメーションで表現してみました。

急成長モデルの終焉

パソコン業界の売れ行き不振が報じられている。大げさな報道では「いくら値引きしても売れない」とまで言われているようだ。同様なことは薄型テレビについても報じられているが、こちらの背景はパソコンとは異なっているように思える。

パソコンについて言えば、過去30年間、数年ごとの新OSとCPUの性能アップで既存製品を短期間で陳腐化させ、4~5年毎に買い換えさせるというビジネスモデルで急成長してきた。これにはパソコン雑誌も新型をはやし立て、メーカーに協力してきた。

しかし今、パソコンの情報処理能力は一般人の日常の要求をはるかに超えるまでに向上し、数年前のモデルでも処理能力に不足が感じられないようになっている。そこでソフトウエアメーカーもハードウエアメーカーも新機能の追加に躍起になっているが、日常使用する機能は既に完備されており、追加される機能は日常的な必要性が低い物が大半になっている。つまり、新機能も一般使用者にとっては魅力が無いと言うことだ。また、パソコンも既に広く行き渡っており、買い換え需要が中心になりつつある。

しかし、上記のような新製品開発姿勢の結果新機種の魅力が薄いので、一般使用者の買い換えサイクルが長くなり始めている。現時点で、買い換えの動機としてもっともありそうなものは、「手垢で汚れてみすぼらしくなった」、「システムバックアップ電池が切れて設定がリセットされてしまう」などかもしれない。私が時々やる、「キーボードに飲み物をこぼした」もあるかもしれないが
電池切れはボタン電池を交換すればまた5~7年ほどは使えるのだが、販売店は「もう旧式だから、お金をかけて故障を修理するよりも新型に買い換える」よう奨めると思うが、これは詐欺に近い。

また、「子供が大きくなったので買い与える」需要も、少子化の日本では量的な期待はできないだろう。

それはともかく、我が家で稼働しているパソコン5台のうち2台は既に10年以上使っている。これでも、アプリケーションの立ち上がりが遅いのを我慢すれば、インターネットやメール、文書作成などには十分使える。さすがにゲームや動画処理は搭載できるメモリーが少ないこともあって無理だが、そのような作業は少ない。また、使いもしない機能がてんこ盛りの新しいバージョンではなく、必要な機能だけは揃った旧バージョンの「軽い」アプリケーションで使っていることも、ストレス無く使える理由になっている。臨時に移動してデーターを取り込む等という用途などにもこれで十分だ。

一方、主力のデスクトップ機も4年ほどになるが、こちらはメモリー搭載量を多くしているので、大画素数のデジタル写真や音楽データをいくつも読み込んで編集・加工する際にもストレスはない。

と言うわけで、パソコンが行き渡り新型の魅力も薄れている先進国では、従来の「陳腐化による需要喚起」というビジネスモデルが陳腐化していると考えるのが正しいようにおもう。

付け加えれば、薄型テレビが売れない理由は、デジタル化特需でこの2~3年内に大量に販売した反動だ。テレビも一度買うと10年前後は使う耐久消費財だ。少なくともあと5年ほどは、日本国内の買い換え需要は落ち込んだままだろう。大画面化も日本の住宅事情では期待できない。昨年メディアがもてはやした3Dも、眼鏡無しでどの位置からでもきれいに見えるようにならない限り普及は期待できない。ネット機能もパソコンの普及が進んだ現状では購買理由にはなりにくい。

と言うわけで、薄型テレビ事業の経営が苦しいというのは、明瞭に見えていた特需終了後の反動に備えることを怠っていた経営陣の不手際あるいは無能が原因としか言いようがない。

追記(2012/03/24);
パソコンについては、新型の高速CPUを持つ物の方が同時にいくつものアプリケーションを使う作業に有利だと指摘する人も少なくないだろう。しかし、複数のアプリケーション間でクリップボードを経由してデータをやりとりしながら作業を行う場合を除けば、それが同一のパソコンで無ければならない理由はない。

March 22, 2012

小出し遅出しは兵法の愚

古来、「小出し遅出しは兵法の愚である」と言われている。だが、この「小出し遅出しは愚」という言葉が正しいのは軍事に関してだけではない。財政においても正しいのだ。

景気刺激を目的とする財政出動も「小出し遅出し」では全く効果がないことがある。また増税も、やはり「小出し遅出しでは」財政改善の役には立たないことがある。同じ原理で借金返済も「小出し遅出し」では返却負担を減らす役に立たないことがある。

国債費削減と財政改善を行うには、早期に十分な幅の増税を行い、目的達成後に速やかに減税を行うべきだ。先送りでは事態が悪化するばかりだから、選挙目的に有権者の機嫌をとろうとするだけで国家の将来を見ようともしない政治屋たちへの批判を行うべきだ。

もっとも最近は大手メディアも大衆に迎合するばかりだ。国家の将来を見据えた議論を展開することなど望むべくも無いのかもしれないが。

March 21, 2012

電動アシスト車いす

NHKの放送で足こぎ車いすが紹介されていた。番組内容は大震災からの復興に絡めた色合いが強かったが、車いすを足こぎで動かすという意表を突いた発想はなかなかの物だった。特に足の機能回復の訓練として優れた効果があると言うことも驚きだった。

それを見ながら思ったのが、電動アシスト付きにすれば神戸のように坂道だらけの場所でも使いやすいものにできると言うことだ。重量増と価格の問題は致し方ないが、電動アシスト自転車の技術は既に実用化されているのだから基本的には可能だろう。回生による電力回収は難しいかもしれないが、小型軽量の小出力発電装置が開発できれば航続距離を伸ばすことも可能だろう。

また、いきなりは足こぎが困難な使用者の機能回復状況に応じてアシスト強度を調節することで、回復訓練としての利用が可能な範囲を広げることもできるのではないだろうか。

足こぎ車いすの開発者の方々、いかがでしょうか?

就職難と求人難と;大学全入運動の成果

就職難と言われる状況が続いている。ただ、職種や分野によっては求人難も同時に存在しているようだ。どうやら、仕事を求める側と働き手を求める側との間ですれ違いが起きているようなのだ。

それではそのすれ違いの原因は何だろうか。

一つは大学全入運動(注)により大卒が増えたことにより、大卒の専門知識が相応しい職種(いわゆる専門職)が必要とするよりも多くの卒業生があることだ。このため、卒業生自身や親が大卒の体面に相応しいと考える職種(大企業の上級職、言い換えるとキャリア職)の求人に対して求職者が過剰になったことだ。また、この20年ほど顕著になった日本国外への赴任を嫌う傾向もこれに拍車をかけているように思える(これには、内向きになった精神の他に、バブル期に蔓延した「日本が最高!だから外国赴任で日本での経験が少ない者は使い物にならい。エリートコースから外すべきだ。」という慢心も寄与しているのだが)。

もう一つはOA化によって事務のスペシャリストの必要性が減少したことにありそうだ。OA化によって昔は高卒のスペシャリストに頼っていた事務処理が、不慣れな大卒でもある程度こなせるようになったことだ。このため各企業は職業教育を受けた高卒を採用しなくなった。その代わりに外部に業務委託をする、あるいは大卒の専門職に高卒の業務を肩代わりさせる等の現象が起きている。この結果、技術系や営業系を除く大卒事務職への求人が大幅に減少しているものと思われる。

さらに加えるべき一つは、大学の乱立によって学生獲得競争が始まり、その結果少しでも目立とうと流行に乗った名称の学部や実務との関係がはっきりしない名称の学部が増え、採用側から見て評価を定めにくいことだろう。企業側にすればそのような大学や学部は避け、評価しやすい、あるいは評価の定まった大学や学部を優先するのは当然だ。

このように、大学全入運動の成果で大学が乱立した結果生じた「金余り」ならぬ「大卒余り」現象が現在の状況だと思われる。

その一方で、誰もが大学に入れる状況では大学に進学しないものは規格外れの落ちこぼれとして、高卒以下のものを見下げる風潮も生じた。その結果学歴を必要としない職種は落ちこぼれの職業として軽蔑され、そのような職業に就くことに親が反対するようにもなった。最近は若干改善の兆しもあるようだが、これが学歴を必要としない職種での求人難の原因と言える。

と言うわけで、就職難と求人難の双方が併存する現在の状況は、「大学全入運動」の成果であり「事務のOA化(あるいはIT化)」の成果のように見える。

注;大学全入運動
「灰色の受験生活」あるいは「受験戦争」、「受験地獄」などと言われた、昭和40年代の厳しい進学競争を批判する「進歩的」教育評論家や婦人団体から、希望するもの全員が大学に進学できるようにすべきだとの声が上がった。その理由は「受験生が可愛そう」、「受験疲れで入学後に勉強しない」などが中心だった。これに応えるようにその後少しずつ定員の拡大と大学の設置に関する基準が緩められ、バブル期以降はさらに急激に緩和されて大学と学部の新設が相次いだ。

その結果必要な大学教員の数も急増し、教員の質が、さらにそれに伴って教育の質も低下した可能性がある。これは、昭和50年代前半の不況時代に言われた「でもしか教師」(よい就職先がないから「教師にでも」なるか、「教師しか」就職先がない)とも関連するかもしれない。

このような事情は、「子供たちがかわいそうだから」として採用された「ゆとり教育」とも酷似している。極力競争を排した「脱戦後教育」の流れの中では終始一貫していると言ってもよい。このような「かわいそうなことは経験させないことがよい」と言う考え方の中で、子供のうちに失敗や敗北を経験することができずそれに対する耐性を身につけることができなくなっている。その結果過度に失敗や敗北、あるいはそれを精神的に克服できないことを恐れ、冒険や挑戦を避けて自己の内部やコミックやゲームなどの虚構の世界に引きこもるようになっている様に見える。

March 18, 2012

「ストレステスト」は不適切

欧州危機に対応するため、金融機関の信頼性評価に対する呼び名として広く知られ、原子炉の安全性評価の呼び名ともなった「ストレステスト」だが、この言葉は用法として全く不適切だと思う。

なぜならば「ストレステスト」で行われるのは、単なるコンピューターシミュレーションだからだ。これは単なるアセスメントであって、実際に負荷をかける「負荷試験」ではない。そしてその信頼性は、シミュレーションに用いるモデルによって大きく影響される。また、モデルであるからには想定する範囲も限定される。

だから「ストレステスト」という名称は一般人に誤解を与えるものだ。より明確に「耐負荷能力評価」あるいは「耐負荷能力見積」とでも呼ぶべきだと考える。

さらにまた、何をどのように想定しているかについても広く公開し、評価方法自体についてもKYの手法に倣って衆知を集めて議論すべきだ。

March 17, 2012

官報;周知努力の欠如

長年感じていることだが、中央・地方を問わず行政組織は周知努力が欠けている。

一例を挙げれば、最近我が家の周辺で増えている「歩車分離式」と称する交通信号の新パターンだ。近所の交差点にいきなり登場して、「歩車分離式」との表示があるもののそれがどんなものであるかの説明は何もなかった。皆が慣れるまでは、人も車も赤信号であるのに飛び出してひやりとさせられる光景が何度もあった。

また別の例を挙げると、厚生年金の3号保険者制度が始まった時も周知の努力は全くされなかった。大企業に勤務していたため、社内の労務担当部門からの社内文書で新制度の説明を受けただけだ。それも、新制度により扶養されている主婦の年金納付が以後不要になったと言う印象が強いものだった。それ以外の周知努力、たとえばマスメディアによる広報活動などは全く記憶にない。

このような例はほかにもあるが、中央・地方とも周知を図る事の重要性に対する認識は甘いとしか言いようがない。この点は改善する必要がある。

もっとも行政組織側の言い分として、法律上、官報や広報紙で周知を図ると定められており、定められたとおりに発行しているのだからそれを読まない方が悪いと言うことかもしれない。しかしそうであるとすれば、学校教育において行政組織が発行する官報や広報紙を読むことの重要性と、それをどうすれば読むことができるのかを周知させる努力が行われていないことが問題になる。

いっそのこと、中学以上の教育機関では官報や地元の広報を目立つ場所に掲示し、生徒にそれを読むよう指導すべしとするのがよいのかもしれない。現状では、わざわざ読むものが少なくなるよう努力しているのではないかと勘ぐりたくなる。

追記;
官報は定期購読できるほか、インターネットサイト(http://kanpou.npb.go.jp/)でも閲覧できる。また、主要な公共図書館にも置かれていることが多い。

March 15, 2012

米国と巨人軍と小沢氏と

プロ野球リーグの申し合わせに反した、巨人軍の巨額契約金の実態が報じられた。これに対する巨人軍のコメントは、申し合わせは単なる目安であって違反行為ではないと言うもの。これを見て、小沢氏の違法行為はしていないと言う主張を思い出した。

さらに加えて言えば、このような主張は米国とも共通している。違法でなければ何をしてもよい、自分に不都合な規範は無視すればよいし、それで非難を受ければ自分に都合よくルールを変えればよいというのが米国のやり方だ。もっとも米国のこのやり方は米ドル札に印刷されている国是、「米国の大義は神の正義」に基づくものだろうが。巨人軍や小沢氏たちは何に基づく主張なのだろうか?

注;「神」とはもちろん絶対唯一の存在である旧約聖書の神のことだ。つまり「米国に都合がよいことは絶対の正義である」と言うことになる。

追記(2012/03/17);
巨人軍が法的措置をとると抗議したが、朝日新聞は逆に二の矢で応酬し引く様子は見せていない。朝日対読売の戦争勃発かとも思ったが、読売新聞は今のところ沈黙を保っている。反撃を準備中と言ったところか。

March 12, 2012

トンデモ科学者の疑問(宇宙編10);赤方変移

宇宙膨張説の根拠となっている赤方変移について妙な事を思いついた。

赤方変移の原因は天体が地球から遠ざかっている事によるドップラー効果だとされている。ただ、これには別の考え方もあり得るのではと思いついた。それは、光が長距離を飛ぶうちにエネルギー失う事もあり得るのではないかと言うことだ。

夏目漱石の三四郎にも書かれているように光が物体に当たると圧力を加える。とすれば、エネルギー保存則から光は相当するエネルギーを失うと考えられる。また、光はそのエネルギーに応じた波長を持つ。と言うことはすなわち、光が長距離を進むうちに星間物質との相互作用でエネルギーを失い、波長が伸びることがあってもおかしくはない。これもまた赤方変移の原因の一つたり得る。

と思うのだが、これもまたトンデモ科学の範疇に入る物だろう。

March 09, 2012

外国人が多すぎる

フランス大統領のサルコジ氏が「フランスには外国人が多すぎる」と言って移民排斥を主張しているそうだ。

しかし考えてみればサルコジ氏自身も東欧からの移民の息子だ。自分の両親を排撃しているようにも聞こえる。「自分のことを棚に上げて」とも言える。

ただ、ヨーロッパ人にとっての外国人とはヨーロッパ外から来た人たち、特に非白人と非キリストを指すことが多いようだ。ヨーロッパのキリスト教徒にとってキリスト教徒でない者(異教徒や不信心者)は信用できない人々であり、キリスト教徒でも非白人は最近になってキリストを認めた下等な存在と言うことのようだ。従ってサルコジ氏の両親が東欧からの移民であっても、白人でキリスト教徒だから外国人ではないと言うことなのだろう。

とすれば、非白人でかつ大部分が非キリスト教徒である日本人は差し詰め外国人の代表格だ。


注;
キリスト教徒にとって「異教徒」とはキリストを崇拝しないユダヤ教徒とイスラム教徒をさす。つまり同じ神を崇拝するが教義の異なる者達だ。

これに対し、不信心者とは旧約聖書に述べられた神(キリスト教の呼び名はエホバ)を崇拝しない者達全てだ。そして厳格ななキリスト教原理主義者にとってエホバに従わない者は全て悪魔に属する忌まわしいものと言うことになる。

追記;
キリスト教以外を抹殺しようとするキリスト教の性格は中世も今もあまり変わっていない。最近もローマ教皇が、西アフリカで土着宗教がキリスト教と混在して信仰されているのはけしからんから禁止しろと命令したばかりだ。また、日本にも初詣の人たちに「おまえたちは罪を犯している、永遠の地獄に堕ちるから悔い改めよ!」と非難を浴びせる集団がいる。日本人のキリスト教徒が、初詣に行くのに対しても禁止令が出るかもしれない。

そう言えば、ネットで過激な発言をし「日本は神道国家だ!」と叫ぶ「ねとうよ」が神道を軽んじるとしてキリスト教を非難したという話はついぞ聞かない。やはり日本人は宗教に寛容、別の言い方をすると鈍感なのだろうか。それとも「ねとうよ」もやはり、明治「維新」以来日本人がたたき込まれてきた「西欧の物事は良い物である」という西欧崇拝が染みついているのか。

March 08, 2012

近づく国際収支黒字時代の終焉

2012年1月度は再び国際収支が赤字になったと言う。それもかつてない大幅な赤字だという。

最近は国際収支が赤字になる事が少しずつ増えている。昨年は震災の影響だとして片付けられてしまったが、国際収支の黒字幅減少傾向は長く続いており、国際収支が継続的に黒字である時代の終わりが近づいていることは明らかだ。

国際収支が継続的に赤字になれば日本の信用力が低下し、政治経済に深刻な問題が生じる。政府も民間企業も、そして国民も赤字縮減のために日本国内製品の優先的購入に真剣に対策に取り組むべきだ。

もはや米国に遠慮して、「国産品優先運動はタブー」などと言っていられる環境ではない。米国自身が「バイ・アメリカン法」により、公然と政府購入における米国製品優先を掲げているのだから、それをまねても文句を言われる筋合いはない。

寒波再来襲

一時、鉢巻き状に戻りつつあった北半球の西風が、この数日再び蛇行を強めていると思ったら、北大西洋から北極海を横断してシベリア西部に吹き込む状態が復活しつつある。広がっていた極東の西風も幅を狭め強くなりつつあるようだ。

先月のユーラシア大寒波では、北極海を横断した風が西シベリアで二つに分かれ、一つが急激に折り返して西ヨーロッパに向かい、もう一つはそのまま南下した後東に向かい、黄河下流で西ヨーロッパを迂回した気流と合流して加速していた。西に向かった風が西シベリアの寒気を西ヨーロッパに運び、まっすぐに南下した風が極東に東シベリアの寒気を運んでいた事によって起きていた。

気象庁も今後気温が低下するとの予報を出している。低温が長続きするかどうかは分からないが、北極海を横断する風が強まれば長くなるかもしれない。

春はまだ、一進一退と言うところか。だが、お水取りが終わるのももうすぐだ。道路情報カメラで見る山地の雪もずいぶん少なくなっている。

March 07, 2012

金は天下の回り物

「金は天下の回り物」という言葉がある。これには、金という物は人から人へと移動していく物で、手元にとどめておくことが難しいと言う意味もある。しかし、この言葉はさらに重要な事を示唆している。

それは回らない金には意味がないと言うことだ。言い換えると、市中にいくら多くの金があってもそれが回らなければ経済が活気づかないと言うことだ。景気が悪いからと市中に資金を供給しても、それが回転する手段を講じなければ滞留するだけで物の役には立たない。日本を含めた政界経済の現状はまさにその状態にある。

これを打開するには起業(企業ではない)投資に資金が回り、勤労者の職と収入を増やす必要がある。それ無しでは、金融業に金がだぶつき、行く先がない金が投機に回るだけだ。そして、投機資金は群集心理で右往左往して経済を不安定にする。

そう言う意味で今の経済政策は根本的に間違っている。資金供給を拡大するよりも、投機収入に対する課税を強化し、逆に起業投資に対する税控除を拡大して優遇すべきなのだ。

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