大震災から学ぶべきこと;温故知新
今回の大震災が教えてくれたことの一つ、それは誤った「温故知新」は有害だと言うことだろう。
災害の予測だけには限らないが、専門家たちは過去の記録や痕跡を調べてどのようなことがあり得るのかを予測する。しかしそれは、「たかだかこのぐらいは起きうる」という形になりがちだ。そしてごく希にではあるが、それをはるかに超える災害が発生すると、「想定できなかった」と釈明することになる。
そのような事態にならぬためには、「少なくともこのぐらいは起きうる」と考え、それに基づいた予測の上限を拡張することだ。
しかし注意すべきこともある。このような災害が発生すると、普段から物事を大げさに言い立てて注目を受けようとする専門家がしゃしゃり出てくる。そしてやはり注目を引きたいB-C級メディアがそれを賞賛する。これは不安を煽るだけで有害だ。それは、証拠に基づいて判断した「少なくともこれぐらい」とは区別しなければならない。
また現代の風潮として、「起きないかもしれない不都合なことは起きないこと」にしてしまう。その原因の一つは、「経営効率化」による経費の出し惜しみだ。「物言う株主」である「投資家」がそれを要求するので、経営者としてはやむを得ないという主張もあるだろう。しかし、投資家は不都合があれば投資先を変えれば済むだけだが、従業員や影響を受ける一般人はそうはいかない。経営者は「投資家」に対する以上に従業員や一般人への責任を優先させなければならない。
さらに言えば、株主にも、経営者にその選択を強いたという点で連帯責任がある。「自己や災害で損害を受けたので救済を」と主張する株主もいるがそれは筋が通らない。株主にも経営責任はあるのだ。
核物理学の経験則、「禁じられていないことは強制される」と同様に、災害も「禁じられていないことは必ず発生する」、そう考えることが全てのものに求められている。また、「記録は破られるためにある」と言う言葉は、スポーツ同様に災害にも適用されると言うこともだ。
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