頻発する無差別殺人や児童殺人事件には根底に共通するものがあるように思う。それは孤独感と想像力の欠如だ。
犯人たちの供述に共通して、「周囲から無視されていた」、あるいは「注目されたかった」という言葉がある。これはつまり、彼らが深い孤独感にとらわれていたと言うことだ。彼らだけでなく、周囲と交渉を持たずに生活している者は多い。そのような者が、何らかの挫折をきっかけに周囲との交渉を持ちたいと思い始める。しかしどのようにして周囲との繋がりを作ればよいのかわからず、孤独感を深めてゆく。
そのはけ口の一つがインターネット掲示板だ。インターネット掲示板では、粗暴な発言や口論が氾濫している。これらのほとんどは注目を浴びたいがための行為だといって良い。反論や非難も、彼らにとっては注目してもらえたという成果だ。しかし、そのような発言が氾濫しているため、少々の発言では埋没してしまう。そのため発言を次第にエスカレートさせてゆくが、結局はただの騒ぎ屋として無視されるようになり、ここでも挫折感を味わうことになる。そして、無視した者たちを見返すために、社会を騒がす事を実行しようとするようになるのだ。
ただ、多くの者はそのような行為の結果が想像できるので実行までには至らない。現実の結果を想像できない者だけが実行してしまうのだ。それでは、そのような想像力が欠如した者ができてしまう原因はどこにあるのだろうか。それは子供の時期の遊び方にあるように思う。
一つには、玩具や遊具がリアルに過ぎ、想像力を働かせる余地が少なくなっていることだ。この為、想像するという習慣がなくなり、結果として想像する能力を低下させているのではないだろうか。
また集団遊び、特に想像を共有する集団遊び、つまり「ごっこ遊び」があまり行われなくなっていることもある。「ごっこ遊び」は想像を共有しなければできないし、そのためには想像力のほかにコミュニケーション能力と共感力を必要とする。子供は「ごっこ遊び」で自分の思いを人に伝え、他人の思いを知る能力を高めるのだ。つまり、ゲーム機遊びのように想像力や共感力を必要としない遊びが主流になったことが、子供たちや若者が孤立感に陥り、それから抜け出せない原因を作っているといって良い。
一人っ子はどうしても一人で過ごす時間が長くなるので、コミュニケーション能力と共感力を育てる機会が少なくなる。その対策として、子供を物心がつく前から大きな集団の中で育て、集団で遊ばせることでそれらの能力の基礎作りをすることがよいだろう。そのためには、乳児期から一人でいる時間を少なくするような、乳児託児所あるいは保育所を考えるべきだろう。
今育ちつつある子供たちには上記のような対策が有効と考えられるが、既に育ってしまった孤独な若者や大人たちをどうすればよいのか、それについてはまた別の記事で考えてみたい。
Recent Comments