大震災13回忌
今日は阪神大震災の13回忌にあたる。書こうか書くまいかと迷っていたが結局書くことにした。
1.当日朝
あの朝、目覚め際の浅い眠りの中で、地下鉄の駅で電車が近づいてくる時のように轟音が近づいてくるのを聴いた。朝っぱらから大型トラックの集団が通っているのかと思った瞬間、布団ごと1m程飛ばされた。大地震であることはその瞬間に分かったので、箪笥が倒れかかってくるのを恐れて、すぐに隣で寝ていた妻を引きずって部屋の反対側まで逃げた。
20秒程して揺れが収まったところで、別室の子供達に声をかけると大丈夫との返事が返ってきたのでとりあえず安心はした。しかしまだ外は暗く、町中が停電して様子が分からないので明るくなるのを待つことにした。ただ、電話が通じなくなる事は予想できたのですぐに弟と妻の両親に無事であることは連絡しておいた。
周囲が見えるようになって外を見ると、近所の家で倒壊した物はなかったが屋根瓦はほとんど吹き飛び、遠くでは20本近くの煙が立ち上っていてまるで爆撃された街のようだと思った。かすかに消防車のサイレンも聞こえたが、全部はとても消しきれないと感じた。この頃勤務先に連絡しようとしたが、既に電話は通じなかった。
電気もガスも止まっていたので、何か腹に入れる物をと近くのコンビニに出かけてみると、既に人が集まり始めており、店員がレジが使えないので値段は記憶が頼りだが良いかと言いながら客に応対していた。客達も非常時だから仕方がないと言いながら買い物をしていたが、みなこのとき既に必要最小限の物しか買っていないようだった。
公衆電話は非常時でも通じることを思い出したので、勤務先に連絡しようと最寄りの電話ボックスまで行ってみると、既にすぐそばの小学校に大勢が避難してきていて、列に並びながら家族の誰が死んだなどと話していた。それで私が予想していた以上に深刻な事態であることを知った。
勤務先に電話が通じると、いきなり「何をしている。早く出てこい!」とのお叱り。とりあえず「交通手段が分かり次第出勤します。」と答えて電話を切ったが、「死者が大勢出ているようです。」とは結局言えず、こちらの状況とのギャップに何とも言えない気分を味わった。
その後は情報が全くないため動くに動けず、救援活動の邪魔になるよりはと家で待機することにした。結局、災害の全体像が把握できるようになったのは夕方電気が回復してテレビを見られるようになってからだった。
マンションの被害状況を見て回ったが、あちこちにヒビが入っていたが大きな被害はないようだった。ただ、大きな余震の度にヒビが広がらないかが気になり何度も見て回った。また、4階以上では貯湯式の電気湯沸かし器が倒れたところがあり、最上階では全戸で倒れていた。このため上水配管がちぎれ、屋上タンクは空になっていた。
1日目の教訓
情報入手のため、乾電池で使えるラジオまたはテレビを常備しておくべし(情報があれば何かできたかも知れない。幸い我が家では大した被害がなかったが、何かすべきだったのではないかと言う思いは、正直言って傷になって残っている。)
風呂の水は抜かずにおけ(水洗トイレに必須)。
食料は数日分は蓄えておくべし(最低3日。水や熱源がなくても食べられるもの)。
カセットボンベ式ガスコンロがあると暖かいものが食べられるので重宝する。
その他
この地震は、最悪の事態が起きるには最善の時間に起きた。大半の人が自宅にいる時間だったため、混乱は最小限で済んだ。日中であれば、人的被害も混乱ももっと大きかったろう。通勤通学の時間帯であれば、倒壊した駅や電車の脱線などでの人的被害はどれぐらいになったことか。また、新幹線も崩壊した高架から落下して多くの人が死んだだろう。
追加(2008/01/15);
寒い時期に停電すると暖房ができなくなることも覚えておくと良い。現在使われている石油ストーブは、ほとんどがファン式なので停電すると使えなくなる。寒冷地では、電気を使わない対流式石油ストーブを備えておくと、調理にも使えるので重宝するだろう。
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