「マン」と「man」
米国では男女差別だとして単語中の「man」を性の区別が無い言葉で言い換える運動がある様だ。 そういえば英語では「女性」を表す名詞も「woman」や「female」でどちらも男を表す「man」、「male」が基本になっている。 「人間」を表す「human」もまた「man」が基本だ。 そして英語では「man」の概念にはあくまで男性だけが含まれるようだ。 また、聖書の創世記から「女性」は「男性」から派生的に作ったので、「女性」は「男性」より劣ると言う概念もまた強いようだ。 そのため、本来男性をさす「man」に女性も含まれるという発想にはならないのだろう。 さらにまた、 これが「女性」蔑視につながり、それを幼児からすり込まれた「女性」達の強い反発の原因でもあるのだろう。
また、男女を厳しく区別する言語ではほとんどの名詞に男女の区別が有り、常に男女の区別を意識することを要求されるのかもしれない。
これに対し基本的に曖昧な表現を許す、文法的にいい加減なところがある日本語の名詞には「男性」と「女性」の区別が無く、特にどちらかの性に限定する場合には「男または夫」や「女または婦」を付け加えなければならない。 「士」もまた本来は「男性」を意味するが、これは早い時期から資格名などで男女の区別なく使う習慣が出来ている。 このような例で分かる通り日本語は性別に関してはいい加減な言語なのだ。
そこで日本語化された「マン」だが、これも日本語に取り込まれた時点で「人」の意味になり男女を区別する感覚が希薄になってしまっている。 その結果、一般の日本人は「~マン」に女性が含まれていてもまったく違和感を感じない。 特に性差別に敏感な女性が「~マン」は男だから「~ウーマン」にしろと言うぐらいのものだが、男女の区別無く使える「~マン」を女性に対して使うのは駄目で、女性の場合は特別に「~ウーマン」にせよというのにはかえって男女差別を感じる人も多い。
前記のようにもともと日本語は「性別(ジェンダー)」に関しては区別する習慣が無い言語だ。 そこに無理矢理区別する言語の習慣を持ち込もうとしても無理がある様に思う。 西欧語では区別するから日本語でも区別せよと言う主張には賛同できない。
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