« December 2017 | Main | February 2018 »
受動喫煙防止に関しては思うことがある。
私は非喫煙者だが、禁煙活動はかなりヒステリックな物を感じるのだ。
だからというわけではないが、私は飲食店の全面禁煙には賛成しない。客が全面禁煙店、分煙店、喫煙可店を選ぶのと同様に、店主が自分の店を全面禁煙、分煙、全面喫煙のいずれにするかを選べるようにすれば良い。そして入り口に、この店がそのいずれであるかを掲示させれば良い。そうすれば客は自分の望む店を選ぶことができる。
このようなシステムにすれば、喫煙可では客が少ないと思う店主は分煙や全面禁煙を選ぶだろう。多様な店が並立するのが望ましいと私は思う。
何でも国家が強制的にかつ一律に定めるのは私は好まないからだ。
ところでたばこの煙の発がん性は大騒ぎするが、同様に発がん性があるはずのマリファナの煙は問題にする者がほとんどいないようだ。たばこの煙の発がん性は、植物の葉や幹をくすぶらせたときに出る煙のタール分に含まれる発がん性物質が原因だ。タール分に発がん性物質が含まれるのはどんな植物でも大差が無い。煙に含まれる発がん性物質の多寡は燃焼条件に依存する。だからたばこと同じ吸い方をするマリファナの煙にも、たばこと同程度に発がん性があるはずだ。
テレビやネットに氾濫する「美肌」、「若見せ」、「アンチエイジング」、「女子力」などなど。 そんな番組やCMを見ていると、男としては女性のよりどころは「見栄」しかないのだなと思ってしまう。
いわゆる仮想通貨は、実態通過と異なり裏付けとなる資産(準備資産)なしに発行される。 金本位の時代とは異なり、発行通貨額面以上の準備資産が金で用意されているわけではないが、それに変わる物で信用を維持するに必要な資産が準備されている。 また、それをしなければ通貨の信用がなくなり為替レートが崩壊しハイパーインフレが発生する。 従って準備資産は不可欠なのだ。
よって、そのような実態価値を持たない物は通貨とは言いがたい。 実態価値を持たない当期商品だ。 性格的に最も近い物はオンラインゲームの中のゲーム通貨やアイテムだろう。
仮想通貨はそのような物であるから、国家はそれに関与すべきではない。 規制も保証も一切せず、何が起きてもすべて取引参加者の自己責任とするべきだ。
トランプ氏がTPPへの復帰やパリ協定への復帰を口にし始めた。 どちらもトランプ氏の都合に合わせた変更があればと言う条件をつけてはいるが、彼もアメリカ・ファーストによって国際協定を無視することの不利益を感じ始めているのかもしれない。
かれのアメリカ・ファースト政策によって、彼の意図した強いアメリカが逆に揺らぎ、アメリカに対する不信感から中国やロシアの国際影響力が増している。 これが様々な場面でのアメリカ外しやアメリカ無視という形で現れ始め、かえってアメリカの利益を損ない始めている。 それに気づいて慌て始めたのかもしれない。 しかし各国はすぐにトランプのアメリカを迎え入れることはないだろう。 今はアメリカが膝を屈して元々の条件をのむのを待つはずだ。
トランプ氏は国内でも苦境にあるが、国際社会でも苦境に陥りつつある。 しかしだからといって国際社会に頭を下げれば、彼のアメリカ・ファーストに投票した者達はトランプ氏の裏切りととるだろう。 自分で自分の首を絞めているトランプ氏が、どうやってそこから抜け出すのかに注目したい。
自衛隊の最初のF-35Aが到着した。 とりあえず三沢から配備されるそうだ。
だが私の感覚ではF-35Aは役に立たない。 北朝鮮相手であれば、航空機が長駆襲来することは考えられないのでステルス戦闘機など無用の長物だし、中国相手であれば米軍の支援があるとしても少なくとも200機は必要で40機程度では全く数が足らない。
軍事力で国を守ると言うより、巧妙な外交戦略で国を守る方がずっと役に立つ。 しかし日本の政府や政治家にはその能力が欠けているし、能力不足を改善する努力もしていないのが歯がゆい。
そもそも話芸は反体制的で毒のある物だった。 毒、つまり批判精神は講釈、漫談、演歌など江戸から昭和初期にかけて続いた話芸の根幹だった。 彼らは話芸でお上(政府)や世相を、茶化して笑わせることで批判していた。
しかし、今のお笑いには全く毒が無く批判精神もない。 世相を批判すればネットでたたかれ、政府を批判すればメディアから排除されテレビに出ることができない。 だからテレビに出て有名になることが第一の木曜であるお笑い芸人志願者達にとっては、政府や世相の批判は絶対にしてはならないことだ。
だから今の話芸(特にお笑い芸)には毒が無くつまらない。
昨夜からの寒さで、朝起きて外を見るとベランダに置いたバケツの水が凍っていた。 冷えにくい南側の軒下でも凍ったことはいかに冷え込んだかを示している。 気象庁のアメダスを見ると、神戸港の岸壁近くにある神戸気象台の最低気温が-3.1℃となっていた。 山麓の標高100m近くにある我が家のあたりはそれより約0.5℃低かったろう。
冬の朝の氷と言うと子供の頃を思い出す。 約60年前、子供だった私は東京の杉並区の南部に住んでいた。 当時そのあたりは、神田川や善福寺川の谷筋は水田で米が作られ、その間の台地上は畑と住宅が入り交じっていた。 道路も主要な表通りは舗装され始めていたが、住宅周りの脇道はまだほとんど地道だった。
そんな道に雨が降ると数日間は水溜りが残る。 その水たまりが冬の朝はたいてい凍っていて、登校時にそれを踏んで割って歩くのが楽しみだった。 今はもう、道路はくまなく舗装されて水たまりがなくなり、都市気候と温暖化で氷点近くまで気温が下がることもない。 従って、そんな楽しみは今の都会の子供には無い。
本白根山で水蒸気爆発が起き、噴石で亡くなった人が出た。
いわゆる火山の噴火には マグマ噴出を伴う噴火と伴わない水蒸気爆発、そしてその折衷型の上昇したマグマが地下水と接触して起きるマグマ水蒸気爆発がある。 噴火はマグマの移動に時間がかかるので予知しやすいが、水蒸気爆発は間欠泉と同じ熱水現象で、始まると急速に進行するため前駆現象から噴出までの時間が短い。 このため有効な予知は困難だ。
水蒸気爆発は、地下の高温の場所に浸透した地下水が蓄積することによって起きる。 さほど圧力が上がらないうちに地表への出口が見つかると噴気孔や温泉になる。 しかし出口が見つからないと高温高圧の水の状態で蓄積していく。 そして圧力が山体の弱い部分を破壊するほどに上昇すると水蒸気爆発になる。
過去の水蒸気爆発では、先年の木曽御岳の水蒸気爆発のように前兆とされた現象もあるが、それが地下の水蒸気圧の上昇による物か、あるいは無関係な地下構造の変動による物でそれが水蒸気爆発を誘発したのかを見極めるのは難しい。 地下の高温高圧水の量が少なければ、地下で何らかの変動があっても水蒸気爆発には至らないので、前兆をとらえて警報を出しても空振りと言うことも十分にあり得る。 むしろ空振りの方が多いだろう。
要は地下にある高温高圧水の量と温度を知らなければ爆発を予測することができないと言うことだ。 しかしボーリングのような破壊検査ではかえって爆発を誘発する恐れもあるし、常時継続して行うこともできない。 従って水蒸気爆発の予測あるいは予報には、非破壊で地下の高温高圧水の量と温度を知ることができる方法の開発が必須だ。
本白根山については、今後しばらくは爆発でできた空洞や密度が下がった部分を埋める内部崩壊が続くだろう。 これが火山性地震や火山性微動として観測されて警報が出るかもしれないが、原理的に考えると同じ場所でのより大きな爆発はもう(地質学的時間でしばらくは)ないだろう。
南岸低気圧や二つ玉低気圧による東京周辺の大雪は春先の二月に多いのだが、今年はまだ一月だというのに現れた。 このような大雪は太陽黒点周期に合わせて増えたり減ったりするのだが、今は極小期にあたりそれと関係あるのだろう。
気候は地球上の要因と太陽や銀河系規模の地球外の要因が重なって変動する。 20世紀後半の温暖化は、温暖化ガスの増加とともにその時期太陽活動が全般に活発だったことが影響していると私は考えている。 太陽活動は21世紀に入ってやや低下しているようにも見えるが、今後のことは科学的予想が不可能だ。 当分温暖化傾向が続くという前提で対処すべきだろう。
東京周辺では春の大雪の翌朝は晴れて気温が上がることが多い。 シャーベット状の雪でびしょ濡れの道路で、滑って転ばぬようご用心を。
朝刊のある広告が目に入ったとたん、思わず吹き出した。
阪急交通社の北海道旅行の広告なのだが、1番目につく場所にデカデカと「あかん湖」と。 もちろん「阿寒湖」のことなのだろうが広告主は関西の企業。 それが「あかん湖」と書いたら当然「ダメな湖」という意味に読まれかねない。
怒れ阿寒湖の皆さん。 そして名前が出ている旅館の方も。
恋は相手に執着し自分に束縛しようとする欲望。
愛は相手に自分を分け与えようとする欲求。
慕は恋に似て相手に執着するが、相手を束縛しようとはしない。
立憲民主党に袖にされた民進党残留者と希望の党が統一会派を組もうとしていたが、両党内から異論が出てめどが立たなくなった。
この10数年失敗を繰り返した統一政策のない野党統合に、未だに数をまとめられればそれで良いと執着する推進派と、少しでも独自性を出すところに存在意義があると考える者達の対立だ。 別の見方をすると、政策なき統合に懲りない勢力と懲りて反省した勢力の対立とも言える。 ただしこのような状況を招いたのは、「自民でなければ何でも良い」、「民主でなければ何でも良い」とメディアの煽りに踊って右往左往した有権者にも、「数さえそろえば政策などどうでも良い」と言う、ただ与党になりたがるだけの利権指向政治家を増殖させた責任がある。
政治家の質が悪いのはひとえに有権者の無責任に原因がある。 有権者も大いに反省して、質の良い政治家を育てるという意識を持たねばならない。
つけっぱなしにしていたテレビでたまたまやっていた韓国時代劇を見て、中高生によく見るずりザック(尻のあたりまでずり下げたリュックサック)の起源がわかった。
李朝時代を舞台にした時代劇の中で、庶民の旅人がナップザックのような袋を使っていたがそれを尻近くの低い位置に背負っていたのだ。 他にも棒状に布に巻いた荷物に2本の肩掛けひもをつけてを腰のあたりの低い位置に背負っていた。
日本では、風呂敷包みを首にかけて担いだり振分荷物にして肩に担いだりして高い位置に担ぐのが伝統だが、朝鮮では低い位置に背負うのが伝統のようだ。 その点から見て、中高生を中心とする若い人たちのずりザックの起源は朝鮮半島の風俗とみて良いだろう。 韓流ドラマを見てカッコイイと思ったのかもしれない。
大統領選挙終了後、ウィキリークスが沈黙を続けている。 あれほど活発に活動していただけに、この沈黙は異様だ。
米国の弱体化を狙うロシアの支援あるいは意を受けて活動していた疑いが濃厚なだけに、米国の官庁や軍内部の協力が得られなくなったのかもしれないが、もっと可能性が高いのはロシアが用済みになったとして捨てたことだ。
組織としてはもう、実質的には存在しなくなっているのかもしれない。
暑さ寒さも少しずつ慣らして行けば、耐性が向上して熱中症にも肺炎にもなりにくくなる。 これを順化または適応という。
今の北朝鮮は、同じ原理で経済制裁に対する耐性ができ、順応力も増しているように見える。
これまでの数十年、米国や日本を中心とした西側諸国はは少しずつ北朝鮮に対する経済制裁を強めてきた。 しかし人道に対する配慮から、その強化の仕方は緩やかすぎたかもしれない。 そのため北朝鮮は様々な手法で順応力を強め、今や少々の制裁では窮地に陥らないのではないだろうか。
「小出し遅出しは兵法の愚」と言う。 経済制裁についてもそれが言えるのだろう。
日本のアニメには戦争賛美物が多い。 その大部分が戦闘用の特殊訓練を受けた若者や少年少女が、「正義」のために「悪の勢力」と戦ってやっつけると言う内容だ。 人気の高い「ガンダム」や「マクロス」など皆このパターンだ。 これを幼時から見ていると、「正義のために戦争をするのはカッコイイ事」とすり込まれる可能性がある。
「正義のために戦うことの何が悪い」と言う人も少なくないだろう。 しかし「正義」という物は立つ位置が変われば変わる物で、立場を入れ替えれば正邪が逆転することも多い。 第2次大戦で言えば、連合国、枢軸国の双方に正義の主張があり、子供達はそれぞれの正義をすりこまれてそれを信じた。 そして戦争の勝敗が決すれば、勝者が主張する正義が認められ、歯医者が主張すr正義は否定される。 これが戦争と歴史の常だ。 「歴史は勝者によって書かれる」のでこれは当然のことだ。
絶対的な「正義」の戦いがありうるのかと言う問題に加え、上記のようなアニメでは相手側の兵士達は虫けらのように惨めに殺されるが、味方は決して死ななかったり、死んでも犠牲的に「カッコヨク」死に、その死が賛美される。 さらに戦闘に巻き込まれて無残に死ぬ非戦闘員は、たとえ市街が大規模に破壊されても決して描かれない。 つまり戦争に巻き込まれて無差別に殺される悲惨な非戦闘員など存在しないというわけだ。
こうして人気アニメでは、戦争はカッコヨク美しい物だと思い込まされる。
外電によれば(昔懐かしい言葉をい思い出したので使ってみた)、トランプ氏が自分は人種主義者ではないと主張したそうだ。
つまり、「あれはごく当たり前の表現で、あの程度のことで人種差別だと言われる筋合いはない」と言うのだろう。
日本でも、自分のヘイトスピーチについて同じようなことを言う者が大勢いそうだ。
年齢 | 男性 | 女性 |
~15 | Boy(男児,少年) | Girl(女児,少女) |
15~20 | Young man(若者,青年) | Maiden(乙女,娘) |
20~ | Man(成人男性) | Woman(成人女性) |
これが私のイメージなのだが、今の日本には40歳過ぎの Boy や30歳過ぎの Girl がはびこっていてどうにも違和感がある。
トルコの空港で着陸時にスリップした旅客機が海に落ちそうになった事故があった。
テレビのニュース映像やインターネットの通信社サイトの映像を見ると、旅客機が海岸の急斜面にかろうじて止まっている。 しかしそれ以上に驚いたのは滑走路と崖までの近さだ。 最も近い部分では30mもあるだろうか? 旅客機の片側の主翼の長さほどもない。 通常の感覚ではこのような安全帯の狭さは考えられない。 設置者が「スリップ事故はあってはならないから起こらない」と考えていたのだろうか。
このような飛行場があるとは、日本人の感覚では考えられない。
相変わらず民進党と希望の党を中心に3野党統一会派を目指す動きが続いている。
元々政治的主張に関係なく、反自民と言うだけで寄り集まった旧民主党の流れをくむ民進党残留者達は、政治的には自民党と大差なく単に自民党内での権力争いに敗れて追い出された自民亜流と言っても良い。 また希望の党も、首相を目指す権力争いに絡めず都知事を経由して首相の座を目指そうとして小池氏個人の党と言っても良いので、これもまた自民党の亜流である。 従ってこの2党は統一会派を組んでも、さらには合併しても、自民亜流で元々大差がないだけに違和感はない。
しかし自民亜流を嫌って民進党を出た立憲民主党は旧民社党の流れをくむ中道派が多いだけに、民進残留派や希望の党とは明らかに政治的背景や基盤が異なる。 立憲民主党が、相変わらず数あわせしか眼中にない他の2党と一線を画そうとするのはこのためだ。 自民亜流と組んでいては自分たちの存在理由が失われるという、民主・民進時代への反省が根底にあると思われるだけに、他の2党がいくら数あわせへの協力を求めても色よい返事はしないだろう。
21世紀に入って、野党は政治的利権だけで離合集散を繰り返してきた。 そんな野党のあり方に見切りを付け、政治的主張を貫こうというのであれば、それで良いと私は思う。
追記(2018/01/15);
立憲民主党に袖にされた民進党と希望の党は統一会派の結成を進めようとしているが、今度は両党双方の強硬派の抵抗に遭って難航しているようだ。 執行部は強硬派の分党も含めて対応すると言うが、それでは何のための統一会派かわからなくなる。 数をそろえる事が目的のはずなのに、さらに数を減らすのでは趣旨がたたない。 両党とも政策なしの寄り合い所帯ゆえのもろさだろうか。
日本を降伏させた後、米国は日本が二度と刃向かえないようにすることを望んでいた。 そして日本の多くもまた、戦争に巻き込まれるような愚かなことを繰り返したくないと思っていた。 両者の思惑が一致した結果、日本の非武装化と日本が武装する必要のない環境作りが進められることになった。
さらに米国は、共産主義を米本土から遠ざけておくための海の向こうの防波堤として日本を利用したいと考えた。 そしてそれは朝鮮戦争によってさらに切実な物になった。 そこで米国は日本を米国が守る代わりに、日本が基地を無償で提供して米国に自由に使わせることを考え、それを日米安全保障条約という形でとりまとめた。 この「米国が自由に使える基地」と言う基本概念が「米軍基地は米国が支配する占領地」と言うイメージを米軍に持たせ、その後日本人との間で様々なトラブルを引き起こす原因となった。 そして、米軍基地は日本の法が届かない米国の占領地であると言うことは、「日米地位協定」などによりいまでも部分的に真実である。
そして沖縄を含めて日本は米国の国防戦略上、仮想敵国の胸元に突きつけた刃の意味を持ち、戦時に自由に使える最前線基地として重要である。 言い換えると、米国が中露と戦争を始めれば日本は直ちに戦場となる。 なぜならば、日本は米国本土に戦争の被害が及ばないための盾だからだ。 その意味で、米国が日本がミサイル迎撃ミサイル(AMM)を持つことに簡単に同意するのは当然だ。 米国本土に対するミサイル攻撃の第一次防御網として有用だからだ。 そしてそれを、日本が日本の費用で設置し維持してくれるのであれば、米国としては費用の点でも好都合だ。
日米安全保障条約は米国が好意で日本の防衛を引き受けている片務条約ではない。 米国本土防衛の目的で日本に基地を保有し、それを自由に使える見返りとして日本の防衛に協力すると言う双務条約なのだ。
2018/01/11;今夜のコスミックkフロントは大音楽会。 2001年宇宙の旅も当然のように登場した。
もう半世紀も前、「2001年宇宙の旅」の初回公開を数寄屋橋のあたり(だったと思う)の映画館で見た。 冒頭の原人のメークと「ツアラストラかく語りき」のファンファーレにも驚いたが、その次の「美しき青きドナウ」にのって宇宙ステーションとワルツを踊るシャトルにはほとんどショックに近い感動を受けた。 それほど音楽と映像が一体化していたからで、それまでに見た映画の音楽とは全く異なる美しさを感じた。
シャトルには当時米国のフラッグキャリヤーだった今はなき PANAM のマークが付けられていて、そのブルーも印象的だった。
今では「2001年宇宙の旅」のような特撮はコンピューター合成で安価に作ることができるが、当時の特撮技術を駆使し大がかりなセットを使って作り上げたリアルな宇宙空間のイメージは多くの人を仰天させた。 そしてそれはその後の実写映画やアニメーション映画に大きな影響を与えた。 窓の中で人が働いているのが見える月面基地や、木星探検船ディスカバリー号の内部などからイメージを借用している例は少なくない。 スターウオーズにもその影響が見られる。
終盤の「永遠の光」にのったサイケデリック(当時流行していた)な光の乱舞には頭が痛くなりかけたが、それも当時の時代精神の一部だったのだろう。 これからもアイディアを借用した例がいくつかある。
「2001年宇宙の旅」は50年前、映画の世界にそれほどの衝撃を与えたのだ。
最近の不漁など、魚の資源問題は日本人の自業自得と言うべき面がある。 ブランド化してメディアに囃してもらい特定魚種の消費拡大を狙う、またそれを外国にも宣伝輸出して消費拡大を狙うなどの流通業者の活動が原因になっている要素があるからだ。
日本からの輸出をもくろんだ流通業者や商社の宣伝活動によって、これまでは日本人以外はあまり食べなかった魚種の消費が中国などで急拡大したため、中台や韓国朝鮮の漁船が太平洋まで進出して乱獲するようになったのだ。
これはまさにブーメラン効果で、乱獲による不漁は日本人の自業自得と言わざるを得ない。
大統領が交代すると、前任者を徹底的に否定し貶めルは韓国の伝統だ。 しかしこれは古来、権力を奪取したものが常に行ってきたことだ。 歴史は勝者によって書かれると言う言葉がそれを良く表している。
日本でも、正式の歴史は勝者を正当化し賛美する目的で書かれてきた。 平氏が驕り高ぶって傲慢だったと書くのは、鎌倉の源氏政権を正当化するためだし、徳川幕府をあしざまに書くのは明治政権を正当化するためだ。 そして徳川政権がしようとしていたあれこれを、非難した明治政権がそっくり取り込んで行ったことを賛美している。 そして、現在でも与野党が交代すると、その都度メディアが新政権に迎合して前任政権をあしざまに書くことが多い。
政権者のこのような行動は国際関係において十分に念頭に置いておく必要がある。 特に韓国はそれが顕著だ。 自分を正当化して選挙を有利にするために繰り返し行われてきた。 従って現政権と行った合意や協定は次政権によって否定、あるいは破棄される可能性は考慮しておかなければならない。
外国からの報道を見ると、現在地球には酷寒と酷暑が併存しているようだ。
米国北東部など北半球の一部は大寒波を伴う冬の嵐に襲われ、逆にオーストラリア南東部は50℃近い酷暑に見舞われているという。 米国人の保守派は「この寒さを見ろ。 温暖化など嘘だ。」と言うだろうが、オーストラリア人は「温暖化がますますひどくなっている。」と言うだろう。
温暖化について言えることは、統計データー上で地球全体の平均気温の上昇傾向が長期にわたり続いていること。 そして酷寒、酷暑、豪雨、巨大暴風などの極端気象が増加し、その極端の度合いがひどくなっていることだ。
ただ困ったことに、温暖化対策で経済的不利益を被ると考える人たちはそれを信じようとしないだろう。 人は、認めると自分に不都合な事実は信じることを拒否するからだ。 逆に自分に利益を誘導できるなど、都合の良いことは信憑性が低くても簡単に信じる。
Win10 で xFy エディター がインストールできなくなったので、仕方なく Open Live Writer を使っているがどうにも作業がやりづらい。
特に表の操作がやりづらいのと画像の質が悪くなるのが気に入らない(*)。 セルの連結や挿入する画像の大きさの指定などをいちいち HTMLタグを手書きして行っているが、xFy エディターの軽快な操作性が懐かしい。
(*) Open Live Writer でパソコン中にある画像を記事に挿入してアップロードしようとすると、勝手にサムネイルを作って挿入し、表示サイズを指定するとそれを拡大表示するため画像がぼけるらしい。 本来は本文中にはサムネイルを表示し、それをクリックすると元のサイズの画像を別のウインドウで表示することを想定しているのだろう。 xFyエディターでは、そのまま表示することも、サムネイルを表示してクリックすると元画像を表示することもどちらも簡単に指定できた。
xFyエディターはブログエディターとして高機能すぎたのかもしれないが、なくなってしまったのは残念だ。 画像や図表を多用するブログを書く人にとって、使い勝手の良いエディターをどこか出してくれないものかといつも思っている。 ソフトウエアメーカーにしてみれば、ホームページメーカーのようなウエブページデザイン用のHTMLエディターを使えば良いではないかと言うことなのだろうか。
作業中にテレビを点けっぱなしにしていることが多いが、日ドラと韓ドラの大きな違いは制作者達の女優達を魅力的に、男優達を見栄え良く表現しようとする意欲の差にあると思う。 時代劇での色彩の違いもあるが、これは幕府の奢侈禁止令による物である以上致し方が無い。 だが近年の日ドラの画面が汚いのは、制作者達の事実を無視した独りよがりなリアリズム指向の為かとも思う。
いずれにしても、韓国でだラマの制作が盛んであるにもかかわらず、日本では衰退してしまったのは制作者達の独りよがりと発想の貧しさによる物では無いかと考える。 それがもっとも顕著に表れているのは、登場する主演級助演級の女優達の数だ。 発想が乏しいから若手女優の使い方がわからず、評価が固まったベテラン女優ばかりに頼らざるを得ないのだ。 実際、多くのドラマで主演している女優はこの20年間ほとんど変わっていないではないか。
若い女優を魅力的に使える有能で大胆な制作者が、日本のドラマ制作には必要だ。
日本メーカーが自慢する{ジャパンクオリティ」だが、最近はそれが多数の機能を付加して価格を高くするだけの意味になっているような気がする。 そしてその機能の多くは、その商品を使っている間に一度も使わない脳な物であることが多い。 つまり、購入者は使いもしない機能に多額の金を払わされているのだ。 つまり、「ジャパンクオリティ」とは購入者に無駄な金を使わせると言う意味でしか無い。
この点、外国メーカーや日本の新興メーカーは極力使わない機能などを省くことで、価格を抑え故障も減らす努力をしている。 日本人でも、時代の先端を行くと見せびらかしたと思わない人々はこのようなシンプルで低価格、そして高信頼性の商品に魅力を感じ始めている。 大手メーカーの願望とは逆に、日本人の消費動向も簡素の方向に変わり始めているような気がするのだがどうだろう。
今年も胡蝶蘭の花茎が伸び始めています。 昨夏は体調が悪かったので植え替えができませんでした。 このため水苔がすっかり悪くなっているのでどうかなと思っていたが、一応は花を咲かせてくれるようです。 今のところ6鉢中5鉢が期待できそうで、いくつかはつぼみが見え始めています。
胡蝶蘭に先駆けてミニタイプのオンシジュームが花を開き始めていて、胡蝶蘭の花が咲く頃には満開になりそうです。 これも2年間植え替えができていないので、この夏はバークを取り替えてやらねばならなりません。 それはぼうぼうになっている中輪のオンシジュームも同じで、この夏は株分けと植え替えが必要だと思っています。
そう考えると、夏の仕事も結構たくさんあります。
写真がそのミニタイプのオンシジューム。 花の大きさは15mm程でバニラのような芳香があり、私は花の形から雅楽の舞人の姿を連想します。
(2018/01/07 撮影)
最近各地で発生している分離独立運動とそれを押さえ込もうとする国家とのせめぎ合いを見ていると、国家と言う存在が一種の利権であると思えてきた。
国家が利権であるとすると、i一部が分離すれば当然利権は縮小する。 従ってそれから利益を得ている者達は当然分離の動きを弾圧しようとする。 分離派と国家との対立を見ると、そんな姿が見えてくるのだ。
それはクルドであれカタロニアであれ、さらには国家集合体であるEUから分離独立しようとする英国であれ、すべてについて言える。
人間がどのような原理で自己の存在を認識しているのかはまだまだ解明できそうも無い。 また、犬や家畜などの高等動物が自己を認識していることも間違いないように見える。 であれば小鳥は自己を認識しているのだろうか、あるいは魚はどうだろうか? こう考え始めるとどこに境界を引けるのかは全くわからなくなってしまう。
そして、自己の存在を認識している主体はなんであるのか? 一部の神秘論者のように魂が自己の存在を認識しているのだとすると、すべての生物について魂の存在を仮定しなければならなくなるかもしれない。 これは、教義で輪廻転生を説き、すべての存在に魂があることを仮定する仏教徒にとってはある意味当たり前の考えだが、聖書で他の生物に対する人間の絶対的優越を説く、キリスト教徒やユダヤ教徒には受け入れがたいだろう。
自己の存在の認識が、灰色の化学物質の塊の中を駆け巡る電気信号に依存していることは間違いが無いのだろうが、物質的には存在しないものが存在すると言うことは実に驚くべきことだ。 もし自己の存在の認識が、脳の神経細胞のネットワークの複雑さがある段階に達した時点で発生するとすれば、それはまた電気的ネットワークを高度化してゆけばある段階から自己の存在を認識しうるという可能性を認めることになる。 それは単にチューリングテストで見分けがつかないという人工知性では無く、自己認識能力(意識)を持つ正真正銘の非有機生命体の可能性を認めることでもある。
これは20世紀中頃からあるSF的悪夢で、意識を持ったコンピューターが人間に反旗を翻す物語や、人間を蟻のような存在として認識する巨大コンピューターネットワークの物語などがある。 「2001年宇宙の旅」に登場する「HAL9000」や「月は無慈悲な夜の女王」に登場する「マイクロフト」等が意識を持ったコンピューターの代表だし、巨大ネットワークが意識を持って人間に制御できなくなる話は何人もの作家によって書かれている。
このような話がなぜ暗い予感なのかと言えば、それはその可能性が零では無いからだ。 特に技術者や事業家達の、AIやネットワークの拡大と複雑化への野放図な熱中ぶりを見ていると、最近専門家がしきりに言い立て、裁判所が数年から数十年以内にも、稼働中の原子力発電所に危険を及ぼす可能性があると認めた、阿蘇山の巨大噴火より可能性が高そうだと思うからだ。
SFでは、人間が気づかぬうちに意識を持ったネットワークが、その機能を止めようとする人間を害虫と認識して駆除し始める。 そして速度で劣る人間達はなすすべも無く立ちすくむ。 そうならないことを切に願う。
今のまま政治家と技術者が脳天気に市場主義とAI化を拡大してゆくと、やがて富から疎外された大衆の怒りによって、再び社会主義革命が勃発するかもしれない。
それはロシア革命の再現だ。
市場主義とAI化は、持つ者をますます豊かに、持たざる者は収入の手段を奪われてますます貧しくなるだろう。 AI化によって人々が働かなくても良い社会と言うが、労働から疎外された貧しい者達をどのような社会システムによって食べさせてゆくのか? それがない、働かなくても良い社会は米国SFによくあるアンチユートピア(ディストピア)になるだろう。
このままでは、百年以内に再び社会主義革命が起きかねないと危惧する。 そうなれば多くの血が流れ、多くの人が死ぬだろう。 貧者にとっては生存をかけた戦いになるからだ。
この歌は団塊の世代の歌手が自分たちのことを歌った歌だ。 歌の中身を知らない世代は、戦争を知らない平和ぼけの脳天気な歌だと思うかもしれないが実はそうでは無い。
我々団塊の世代は、戦争が終わって平和になったからこそ生を受けることができた。 戦争を実際に体験していないという意味では確かに戦争を知らない。 しかし我々に物心がつき始めた昭和20年代の中頃(1950年代前半)にはまだ戦争の惨禍の名残があちこちに残っていた。 街に出れば焼け跡の廃墟がまだ見られたし、盛り場には多くの傷痍軍人(戦傷で障害者となった軍人・兵士)が物乞いをしていた。 これらは昭和30年代に入ると急速に姿を消したが、我々には戦争がいかなる惨禍をもたらす物かという記憶を残している。 そして親や祖父母の世代から聞かされた、戦時中の苦しさや戦争支援のために払った犠牲、そして政府とその追随者達の愚かな行動も記憶している。
そうした意味では、「戦争を知らない子供達」は戦争を全く知らないのでは無い。 戦争の惨禍の記憶を受け継ぎ、世界中の誰もそんな悲惨な目にあわせてはいけないと教え込まれた。 その点、安倍氏をはじめとする高度成長後の豊かさの中で育った世代とは全く異なる。
「戦争を知らない子供達」は、実は戦争の悲惨さと愚かさの記憶を受け継いでいるのだ。
Recent Comments