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November 2006

November 30, 2006

北朝鮮の今後

北朝鮮の現体制がもう長くは持たないであろうことは誰の目にも明らかだろう。私の目には、既に持続可能な臨界点を過ぎてしまったとしかみえない。

しかし、北朝鮮をめぐる最大の問題点は、どの国も体制崩壊後の北朝鮮を背負い込むのを避けたいと思っていることだ。中国も韓国も、米国ですら現体制の崩壊を望まず、穏やかな退場を望んでいるだろう。体制が崩壊した後の北朝鮮を支え、立て直すには巨額の資金が必要になるからだ。これは周辺国にとっては深刻な問題で、体制崩壊後に大量の難民が流入する可能性がある韓国にとっては、自国経済の崩壊につながる恐れすらある。これが韓国が太陽政策に固執する理由であろう。難民の流入は陸続きの中国やロシアばかりでなく、日本も巻き込まれる可能性があるのは言うまでもない。

日本にとっても北朝鮮の崩壊は経済的に大きな負担になるだろう。韓国だけでは支えきれないことが明白である以上、日本にも巨額の援助を求められることは容易に予想できることだからだ。日本政府がこれへの対処を誤れば、日本経済は大きな景気後退に見舞われることになるだろう。

国家崩壊を避けつつ、穏やかに現体制に退場してもらう方法は無いものだろうか?既に手遅れのような気がするのではあるが。

タバコの吸い方

喫煙者が減ったとはいえ、街中でタバコを吸う人はまだまだ多い。街中でタバコを吸う女性はむしろ増えているような気がする。

そこで気になるのはタバコの吸い方だ。若い人たちは父親からタバコの吸い方を教えられないのか、人混みで他人に危険な吸い方をする人をよく見かける。

1.くわえタバコで歩道を自転車で走る。(市街地では、男性よりも若い女性に多い)
2.火を外側に向けてタバコを持ち、人混みを歩く。(この状態で、腕を振って歩くので危なくて仕方がない)

1.は見た目が無様だし、咄嗟の時の反応が遅れるので止めて欲しい。
2.は他人にやけどをさせたり服に穴を空けたりする危険があるので、絶対に止めるべきだ。幼児の顔にタバコの火が当たりそうになってヒヤリとしたことが何度もある。歩きながらタバコを吸うならば、火を手の内側に向けて手のひらで包むように持ち、腕を振らないのは基本中の基本だろう。

私たちはタバコを吸う時の最低限のマナーを父親からおしえられたし、タバコを吸う女性も映画を見てきれい(上品で色っぽく)に見せる吸い方を研究していたものだ。そういえば、男性も有名俳優の粋な吸い方のまねをする者が多かった。

男性も女性も、タバコを吸うからには他人に危険がなく、きれいに見える様心がけて欲しい。

追伸;
私はタバコを止めて30年近くになる。風邪を引いてタバコが不味く感じたので数日のつもりで休煙したのだが、せっかくだからもう数日が1週間になり、いつしかそのままになってしまった。

禁煙しようなどと大決心をせず、体調が悪くてタバコを不味く感じた時に始めたのが続いた理由かも知れない。

November 29, 2006

ゆとり教育の問題点

ゆとり教育の最大の問題点は、授業時間が少なすぎて授業にゆとりが持てないことだと思うのだが・・・。

ガキ大将

今日(11/29)の朝日新聞の朝刊に、高見ノッポさん(通称でごめんなさい。この方が親近感があるので)のガキ大将に関するコラムが掲載されていた。

その中で書かれているように、私が子供の頃のガキ大将は集団遊びグループのリーダーで、仲間の安全と集団内の弱い者の保護に責任を負っていた。もちろん、ルールに違反する者に制裁を行うこともあったし、それはしばしば暴力的になったりもした。しかし、制裁自体にもルールがあり、気まぐれに制裁を行うリーダーはメンバーから見捨てられたものだ。

当時の子供達はその集団の中でルールを覚えた。遊びだけでなく喧嘩ですらルールがあり、体の弱い者や、年少の子供に対する暴力は厳しく止められていたし、同年齢でも自分より弱いことがはっきりしている相手に喧嘩を売ることは恥じるべきこととされていた。また、こぶやあざ、擦り傷以上のけがをさせないようにしなければならず、重傷を負わせる可能性のある行為は年長者がやめさせていた。

こうしたリーダーの統率下で、子供達は弱者を保護しなければならないこと、喧嘩の時も自分を見失って暴走して、相手に大けがをさせるようなことがあってはならないことなどを覚えた。最近の事件をみると、逆上して歯止めがかからなくなった末のように見えるものが多いが、これは集団内での行動の訓練ができていないことと関係があるように思える。

この様な傾向の対策として、学校で学年縦割りのグループを作り様々な集団活動をさせるのが良いと思うのだがどうだろうか?年長者に年少者を保護・指導する役目を負わせることにより、年長者がみずから規範を示さねばならないことを自覚してもらう役には立つと思うのだが。

なぜ子供に罰を与えるのを嫌うのか?

教育改革に関する諮問委員会で、いじめた子供に対する登校停止などの罰が提案されたところ、教育を受ける権利を侵害するから反対との意見が多かったそうだ。特にいじめた子供がいじめられる側に回ることもあるので、厳しい罰は与えるべきではないのだそうだ。

有識者会議の委員を務める方々は知識はあるのだろうが、専門馬鹿で見識がないと思うことが多い。不当な行為を行えば罰を受けると言うこと教えるのも教育のうちであり、悪質な行為に対しては厳しい罰を現実に与えなければそれを身に付いたものとして教えることはできない。

有識者は教育を受ける権利を侵害してはならないと言う。しかし、憲法で自由が保障されているにもかかわらず、刑事事件で実刑判決を受けたものは自由を奪われ刑務所に収監される。刑務所に収監するのは罰であると同時に更正のための教育であり、登校停止などの厳しい処分はそれと同じだ。まさか、憲法で自由が保障されているから、刑務所に収監するのは憲法で保証された権利の侵害であるとは誰も言わないだろう。

私たちの子供時代には悪さをする者が多く、学校でも学校外でも露見すれば様々な罰を受けた。たちの悪いいたずらや迷惑行為を性懲りもなく繰り返せば、職員室に立たされたり殴られたりもしたし、それでも改めないものは親が呼び出され、登校停止になることもあった。今は、そのような処分は子供の心を傷つけるからしてはならないと言う意見が強いようだが、我々にとってはを罰を承知の上でしていることなので精神的に傷つくようなこともなかった。ついでに言えば、学校で罰を受けたことを親に言うこともなかった。言えば、今度は親に厳しくしかられるのが分かり切っていたからだ。

それはともかく、どのような事をすればどのような罰を受けるのかと言うことは、子供達にしっかりと教えなければいけない。そして、社会のルールは理屈抜きに歴史の中で定まってきたものが多いので、理屈が分かる前から教え始めなければならない。理屈抜きに決まっていることを理屈で教えようとするのは、どだい無理なはなしだからだ。

ただし、罰を与える場合、行為と罰との関係が一貫していなければならないことは言うまでもない。一貫性があれば罰を受けても納得できるし、逆に一貫性がなければ罰を与える者を信じることができなくなる。

軽いWindowsが欲しい

Windows はますます多機能に肥大化し、重くバグだらけになって行くようだ。

しかし私の個人的な希望を言わせてもらえば、不必要な機能を省き、起動時間が短く、動作も軽いものが欲しい。

汎用パッケージの他、事務用パッケージ、技術計算用パッケージ、エンターテイメント用パッケージなど、必要なもだけをインストールでき、価格も安いパッケージが有ればよいのにと思う。

既に、1台のパソコンで何もかもという時代には終わりが見え始めている。Micrsoftは、独占的な立場を利用して、使いもしない機能を抱き合わせて高値で売るのは止めて欲しい。

いっそのこと、現在の視点でBTRONの開発を再開する可能性は無いものだろうか?前回は、Microsoftの意を受けた米国政府につぶされてしまったが。

November 28, 2006

いじめられる君は悪くない

私の世代が子供の頃も、子供達の間でいじめが全くなかったわけではない。しかし、いじめることもいじめを見過ごすことも恥ずべき事だと、親からも学校でも教えられた。そして、いじめをする者には軽蔑の目が向けられるため、特定の子供に対するいじめが長く続くことはほとんど無かった。

いじめられる子は、昔も今も内気でおとなしい子だろう。そして、現在の教育は従順な子供を作ることを目指しているように見え、結果としていじめられやすい子供を多数作り出していると思う。この点、私たちの世代が受けたいわゆる戦後教育では、従順であるよりは自分で考えて判断し、権威を鵜呑みにしないことを求められた。そして、意見が違う者がいるのは当然であり、議論は相手を理解するための手段と教えられた。極論すれば、喧嘩もまた相手を理解するための手段といえ、実際喧嘩の後で気心の知れた友人になることも多かった。

これが戦中教育を受けた世代から、反抗的であるとして我々の世代が嫌われる理由でもあるのだが、これはまた他人の目を気にせず付和雷同しない事でもある。結果として、仲間はずれにされることを恐れて、いじめに追随するようなことも少なかった。

一方、ひたすら従順であることを求められる現在の子供達はまた、多数に同調することも強く求められている。これは結果として、仲間はずれを恐れて自分の感情を抑え込むため、多くのストレスをため込むことにつながっていると思う。そして、自分より弱い者を攻撃することでストレスを解消しているのだろう。これに仲間はずれにされ、自分がいじめの対象となる事を恐れる他の子供達が追随したり、みて見ぬふりをするのだろう。

以上のことから皆が認識しなければならないのは、いじめられる側に問題があるのではなく、むしろいじめる側の精神状態にこそ問題があると言うことだ。従って、いじめ問題の解決には、いじめられた子供だけでなく、いじめた側に対するカウンセリングを欠かすことはできない。また、ひたすら従順な子供を求める現在の教育内容を改め、個人を確立し自立できる子供の育成を目指す事も必要だと思う。

最後に、今いじめられている君へ。いじめられている君は悪くない。君をいじめる者たちこそ軽蔑されてしかるべきだ。だから君をいじめる者たちを見下してやれ。そして孤立を恐れず、風に向かって顔を上げて歩ける君になって欲しい。

November 27, 2006

児童虐待

子供を虐待し時には死亡させる事件が頻発しているが、これに関して気になったことがある。

それは、ほとんどの場合母親とその子供、そして内縁の夫の組み合わせだと言うことだ。その背景には、女を独占したい男の甘えと、男を失いたくない女の迎合があるように思う。

チンパンジーの雄は、群れを乗っ取ると以前の雄の子供を全て殺すという。人間もチンパンジー並と言うことか。

November 23, 2006

バイオエタノールは環境に優しいか?

最近注目されているバイオエタノール燃料について気になる点がある。

それは、バイオエタノール燃料の利用で先端を行くブラジルで、原料となるサトウキビの増産のため熱帯雨林や原野が開墾され、急速に面積を減らしていると聞いたからだ。その他の原料についても、本来は食料や飼料として使用しうるものであり、世界中で数百万人が飢えていると言う事を考えると、燃料用として消費して良いのだろうかと考えてしまう。燃料として消費された分は、新たな耕地を開墾して補わねばならないであろうし、これもまた環境破壊につながってしまう。

それやこれやを考え合わせると、バイオエタノール燃料は本当に環境に優しいのだろうかと思う。

臓器移植について

少し前のことになるが、愛媛県で起きた学会指針に反した腎臓移植について考えた。

なぜこの様な事が起きたかと言うことだが、提供者がなかなか見つからないと言うことについては、根底に医師に対する不信感があるように思う。最初の心臓移植以来、臓器移植に関しては不信感がつきまとっている。そしてこれが脳死移植についても臓器ほしさに助かる人も脳死と言われるのではないかとの疑念になり、提供者が少ない原因になっている。

今回の事件はこの様な医師に対する不信感を増加させたように思う。特に、患者から取り出した腎臓を本人に無断で移植に使用したと言う点については、窃盗もしくは横領に当たる可能性すらある。取り出した臓器の所有権は取り出された患者にあるはずであり、私も胆石の手術の後、摘出した胆嚢をどう処分するかについて医師から尋ねられた記憶がある。

この様な臓器窃盗まがいの行為は、放置すれば移植用臓器目的の殺人などとんでもない事態につながりかねない。それについてはラリイ・ニーブンがSFでその可能性を考察している。

いずれにしても、生体・死体を問わず、他人の臓器を移植すると言う行為自体が矛盾を内包している。一つの生の為に一つの死を希求する、あるいは一人の健康のために一人を傷つけるというのは、健全な医療行為とは言えない。

この矛盾を解消するためには、再生医療の進歩を待たねばならないのだが、いくつかの器官については実用化がそう遠くないだろう。

November 22, 2006

遺伝子は設計図ではないかも知れない

遺伝子は生物の設計図だと言われている。しかし、最近私はむしろ製造手順書ではないかと思うようになってきた。理由は、複雑な生物体の設計図としては情報が少なすぎるような気がするからだ。

生物体にはフラクタルな構造が至るところでみられる。と言うことは、それを作るためにもフラクタルな方法が使われていると考えられる。フラクタルの特徴は複雑な構造をを簡単な式で表現できることにあり、その構造の具体化は式を細部に向かって繰り返し適用することで実現できる。つまり、式は設計図よりもむしろ手順書の役割を果たしている。

生物体組織の分化と形成には、同じ遺伝子が異なる場所でも使われるという報告もある。これも遺伝子が製造手順書であり、同じ構造を組み立てるのに異なる場所で利用されると考えると納得しやすい。

小泉チルドレン

小泉チルドレン。指導者たるべき人たちが子供と呼ばれて平然としているとは。日本の政治は所詮お子様の政治と言うことか・・・。

チルドレンと呼ばれて反発もせず、政治家としての初歩を教えるという研修会に嬉々として参加する。そんな勉強は立候補する前に済ませておくべきだろうに。要するにただの数と言うだけのこと。

日本の政治は数合わせにすぎないので、中身は空洞でも一向にかまわないのだろう。執行部の言いなりに議会で賛成票を投じてくれさえすれば。

一家言持った論客たちが侃々諤々の議論を戦わせ、国会での質問は官僚達を戦々恐々とさせていた、そんな時代ははるかな昔になってしまったようだ。

November 21, 2006

トラックバック

最近は、検索ツールを利用して自動的にトラックバックを付けているのでしょうか?

キーワードで考えると無関係では無いと言えるのでしょうが、内容で考えると無関係なトラックバックが増えてきました。例えば、「低床バス」の記事にはラジコン自動車の販売会社からのトラックバックが付きました。電動自動車に触れたので、電動ラジコンも同じキーワード「電動」で上がってくるのでしょうが、思わず大笑いしました。

この記事には、トラックメーカーからのトラックバックが付くのかも・・・・。そうしたらまた大笑いですね。

電動自動車用モーター

電動自動車用モーターの回転子としてブレーキディスクを利用できないものだろうか?

もし利用できれば、駆動系を簡略かつコンパクトにできるだろう。温度変化が激しいので、磁気特性や熱サイクルによる強度低下など問題も多いだろうが、技術的課題としては面白そうだ。

低床バス

障害のある人や高齢者が乗降しやすい、低床バスが増えてきている。

しかし低床バスに乗るたびに、車内の無様さにうんざりする。というのは、車内スペースを大きなホイルハウスが占領して車内前半部の1/3程が利用できない上に、前方にある乗降口との間の通行がしにくくなっているからだ。さらに、車内後半部との前半部の間に大きな段差があるため、足腰が弱くなった高齢者にとっては座席にたどり着くのが一苦労になっている。

既に舗装が行き届いている市街地のみを走行するのであれば、小径タイヤの多輪(軸)にすれば良いだろうと思うのだが。

もちろん、価格が上がると言うことが多輪(軸)化されない理由だろうが、乗車可能な人数が増える、車内が通行しやすくなるなどのメリットがある。また、床が低くなった分車高を下げられるので、これは若干ではあるが車両価格上昇を相殺するだろう。

バスが電動化され、ホイールモーターが使われるようになるまでは無理なのだろうか?


余談だが、最後部に直列エンジンを横置きにすれば、後半部の床も今のようには高くせずに済むだろう。あるいはジーゼルエンジンで発電し、走行は電動でと言うのもあり得るかも知れない。まるで潜水艦だが、この場合はエンジンを最も効率の良い回転数で回せばよいので、意外に小さなもので済む可能性があるし、置き場所の自由度も大きくなる(例えば運転席の下)。

November 19, 2006

ゆとり教育とは?

1学級30人以下でなければ、十分な教育ができないというゆとり教育とは何だろう。

私が小中学校の頃は1学級50~60人が当たり前だった。今の教員達が30人以下でなければまともな教育ができないというならば、我々が受けた学校教育とは何だったのか不思議で仕方がない。

管理強化のせいで授業以外の事務などが大幅に増えて、それが教員の負担になっているというならば、それはそれで理解できないことはないのだが。

それにしても、漢字の書き取りや演算練習、社会生活のルールなど、理屈抜きに繰り返しで教えなければならない物事を減らそうとするゆとり教育には首をかしげることが多すぎる。

応用力の根底には基礎知識が不可欠だが、それらには理屈抜きで繰り返すことで覚えねばならないことが多いのだ。また、理屈は後から教える方が理解しやすいことも多い。

小説と音楽

街を歩いていて、映画の副題に「デッドマンズ・チェスト」あるのに目が止まった。

理由はスイフトの小説「宝島」に出てくる歌を思い出したからだ。小説中では「あの恐ろしい歌」と書かれているが、これは「Fifteen Men On the Deadman’s Chest」というタイトルの歌で、カリブ海にあるという難所「Deadman’s Chest(死者の衣装箱、隠喩で棺桶の意味もあるとの説も)」で難破した海賊達の物語だ。

「宝島」以外にも、海洋小説にはよく音楽が出てくる。これは、航海中の娯楽や水兵の戦意高揚に音楽が利用されたからだろう。「ホーンブロワー」シリーズに出てくる「ホーンパイプ踊り」の音楽がどんなものであったのかは知らないが、「樫の心(Hearts of Oak)」、「支配せよブリタニア(Rule Britania)」などは頻繁に出てくる。また、イギリスの仇敵であったフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」も良く登場する。

「Hearts Of Oak」の歌詞の一部は、「ボライソー」シリーズのタイトル「栄光に向かって舵を取れ(To Glory We Stear)」として使われている。また、NHKが名曲シリーズで「リバティー・ソング(Liberty Song)」として紹介していたアメリカの愛国歌の原曲なので、聞いたことのある人がいるかも知れない。

「Rule Britania」は、フォークランド戦争の際に兵士を乗せて出航する「クイーン・エリザベス 2世号」を見送る人たちが歌っていたのをテレビで見た記憶がある。ともに今もイギリス海軍で広く歌われているのだろう。

海洋小説以外にも音楽が出てくる事はよくある。例えばファンタジー小説「西の良き魔女」には、男声合唱の経験者ならよく知っているであろう「いざ立て戦人よ」が出てきたりする。小説中で音楽が出てくると、知っている曲であればその場面の雰囲気が良く分かるし、知らない曲であればそれがどんな曲であるかを調べてみるのも、小説を読む楽しみの一つだ。

追加;「Hearts of Oak」は下記のアドレスにmidiファイルと歌詞があり、聞くことができる。
    http://www.contemplator.com/england/heartoak.html

追加2;「Fifteen Men on the Deadman's Chest」は、その後調べてみたところではスティーブンソンの創作だそうだ。最初の8行をスティーブンソンが作り、後に別人の手で残りの行とメロディーが作られたとの事。

追加3;「いざ立て戦人よ」はカワイ出版の「グリークラブ・アルバム1」に納められている。

談合摘発、何を隠す?

談合の摘発が続いている。

もともと、談合の大半はもともと官製と思っているから何を今更という気がするのだが、ここに来て急に摘発されだしたのは何かから国民の目をそらそうとしているのではないかと感じるのは、下司の勘ぐりだろうか?

November 16, 2006

ポスティング制度

読売巨人軍の代表が、日本プロ野球の衰退を招くとしてポスティング制度を批判しているそうだ。しかし、巨人軍関係者は相変わらず勘違いをしているように思う。

今の日本のプロ野球は、年俸が上がりすぎるとFAで巨人軍に行くしかない。しかしその結果はどうなっているだろうか?巨人軍に力のある選手が集まりすぎる結果、それらの選手を使い切れず、結局飼い殺しにするしかない。そして出番の無い大物選手の不満をなだめるため、2軍常住でも報酬が下がらないぬるま湯のような環境を与えている。

その結果、若手の選手は努力してもその成果を発揮する場が無く、向上意欲がなくなってしまう。そして巨人軍全体の活力が低下するため成績が低迷し、結局はプロ野球全体の人気が低迷している。

そのような現状では、野心と向上意欲がある選手達がより厳しいがやりがいのある環境を求めて、メジャーに行こうとするのは当然だろう。メジャーを目指す選手を批判するよりも、もっとトレードを盛んにして若い選手に活躍の場を与える方が選手の意欲を向上させ、より活気のある面白い試合を見せることができるだろう。それが日本のプロ野球の人気回復の正道だと思う。

November 10, 2006

自民党は大政翼賛政治を目指すのか?

反対意見に対しては聞く耳を持たず、強権政治を行っていた小泉政権下での翼賛公聴会の実態が明らかになってきています。

さらに、操作し選挙の際に党の重鎮達が「総裁の政策に逆らうことは許されない」と発言したこと。小泉チルドレン(いかに若手でも、政治家がチルドレンであって良いものだろうか)達に、党方針に従順であるように指導が行われています。

これらをみると、自民党が大政翼賛政治を目指してるように見えて仕方がありません。やがて「お国の方針に逆らうことは許されない」日が来るかも知れません。

かつての自民党は、百家争鳴で極右から極左までを含み、党内で十分に議論がなされた後に国会に持ち出されていました。一家言あるはずの政治家が、党幹部の指図に唯々諾々と従うようなことは、日本の選択肢を狭めて衰退に向かう道に見えて仕方がありません。

November 09, 2006

入学式の訓辞

私が子供だった頃の入学式の訓辞はこんな感じでした。

中学;中学は大人になるための勉強をするところです

高校;高校は大人として振る舞う練習をするところです

大学;大学生は大人としての自覚を持って行動して下さい

今の先生方はどんな訓辞をするのでしょうか?学校が社会規範に反する行為を行って、生徒達に大人の見本を示すことができるのかと思います。大人の見本となる、自覚と責任のある振る舞いを示して欲しいものです。

超微粒子化粧品、本当に大丈夫?

最近、超微粒子を含む化粧品の広告をよく見かけます。超微粒子としては銀、プラチナを用いるようですが、これは人体にとって安全なのでしょうか?化学畑の人間としては少々心配になります。

銀は酸化されやすいので、恐らく水に溶けない何かの塩として利用されているのでしょうが、光で活性化されやすいので活性酸素の放出などで有害なのではないかという事が心配です。

また、プラチナは酸化されにくいので金属状態か何かの塩かは分かりませんが、もともと触媒として利用される金属だけに、やはり活性酸素や活性水素を発生させて有害な作用を表すのではないかと心配です。

真珠を酢に溶かして飲んだというクレオパトラの昔から、美容目的に高価なものを使うのはよくあることですが、高価であれば効果が有りそうに見えると言う、単純な考えであれば安全性が気になります。

November 08, 2006

やり得時代

最近のニュースをみるに付け、「バレなければいい」「みんなでやれば、バレても救済してもらえる」言った考え方がはびこっているように感じます。

高校での必須科目の未履修問題にしても、酒気帯び運転問題、さらに保険会社の保険金不払い問題など、全て同じ根から出たものに見えます。みずからに恥じるようなことはしない、と言う誇りある態度はもう昔のことになってしまったのでしょうか?

日米野球全敗

日米野球は全敗に終わった。予想通りの結果ではあるが、野村監督の辞退者がでたから負けたとの発言はいただけない。野村監督は、なぜ辞退者が続出したのかを考えるべきだ。

もし日本チームの監督が王監督であれば、これほどの辞退者は出なかっただろう。野村監督の下でプレーすることを嫌う選手が多かったのだと言うことを、野村監督はかみしめるべきだ。

かつて野村監督が阪神の監督に就任した時に、「古田抜きの野村が使い物になるものか」とここに書いたことがある。そして結果は皆さんご承知の通りだ。

野村監督がヤクルトで好成績をあげられたのは、古田監督が上手に選手との間を取り持ったからこそだと言うことを認識すべきだろう。

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